目覚めると、瞬はやわらかく温かいベッドの中にいた。 白く清潔なシーツ、白いカバーで包まれた温かい掛け布。 その清潔感とやわらかさが快くて、誰にともなく にっこり笑い、瞬は再び快い眠りの中に戻ろうとしたのである。 そして、はっと我にかえり、飛び起きた。 今の自分は こんなところにいていい人間ではないということを、瞬は突然思い出したのだった。 もう何日も身体を洗っていない。 ドルバルのあのいやらしい目を避けるために、わざと土を頬や髪にこすりつけることさえした。 こんな清潔なところに自分がいたら、せっかくの白いシーツをよごしてしまうという考えが、瞬に覚醒を強いたのである。 「あ……」 明瞭になった意識と知覚で、瞬は、今の自分が あの地下牢にいた時の自分ではないことを確かめることができた――知った。 黒ずんでいた手指の汚れは消え去り、その手で触れた頬もなめらかで、擦りつけた土や砂の感触は全く感じられなかった。 身に着けているものも手足が剥き出しになる下着のような貫頭衣ではなく、露出の少ない やわらかな綿の夜着である。 自分の白い腕を見て、これはいったいどういうことかと、瞬は眉根を寄せたのである。 そして、ここはいったいどこなのかと。 瞬のいる部屋は、どう見てもワルハラ宮の一室――瞬が最初にワルハラ宮に入った時に案内された客用寝室と同じ造りの部屋だったのだ。 瞬が寝台から降りようとした時、部屋の扉が開いた。 「お目覚めか」 その声で、彼があの不吉な地下牢に来た男だということが、瞬にはすぐにわかった。 牢内で瞬が見たものは、衰弱が見せた幻影の類ではなかったらしい。 彼は、瞬が牢で見たとおりに腰に剣を 改めて見ると、彼は実に綺麗な男で、髪そのものが光を放っているのではないかと思えるほど見事な金髪と、戦士としては申し分のない体躯の持ち主だった。 面立ちだけは、戦いのために歪められたこともないように端正で、到底戦士らしいものとは思えなかったが。 ――自由に一人でワルハラ宮内を歩きまわっているのなら、彼はやはり敵なのかもしれない。 となれば、瞬は、敵に同情を乞い、敵に哀れみを施されたことになる。 彼に礼を言うべきか否かを、瞬は大いに迷うことになった。 「あ……の……」 「アテナの聖闘士というものの価値観がわからないな」 戦いを知らぬげに端正な顔――と瞬が思ったものを、彼は惜しむ様子もなくはっきりと歪ませた。 不愉快そうに顔を歪めたまま、瞬をまじまじと見おろす。 「聖衣を返せ、メシを食わせろ、暖かいところに連れていけ、風呂に入らせろ。あれをしろ、これをしろとうるさいから、優先順位を決めろといったら、食事よりも風呂を優先させた。5日もろくな食い物を与えられていなかった人間が、普通、食事より風呂を優先させるか?」 「僕は……」 そんなことを言った記憶が、瞬にはなかった。 あの地下牢にやってきた人物に、ここから出してくれたら何でもすると言って解放を懇願したことは記憶しているが、居丈高にそんな指図をした覚えもないし、常識をわきまえた人間なら虜囚の身でそんな要求を口にできるはずもない。 そう思いはしたのだが、地下牢で意識を放棄したあとの記憶が全くない瞬には、彼の言を否定することもできなかった。 「この城でドルバルに仕えていた者は皆逃げ出してしまったんだ。図々しい礼儀知らずでも仮にもアテナの聖闘士、戦い方を知らない村の女に世話をさせて、その者が怪我でも負わせられたらまずいと考えて、この俺が湯を沸かし、おまえの身体を洗ってやったんだ。感謝しろ」 「……」 全く憶えていない。 憶えてはいないのだが、自分の身体から汚れが取り除かれ着替えも済んでいるのは疑いようのない事実である。 瞬は、彼の主張を嘘だと断じる根拠を持たなかった。 「肌の焼けた薄汚れたガキだと思っていたのに、一皮剥いたら、雪のように白い肌が現われて驚いた」 「見たの……」 「見ずに洗えるか」 至極尤もなことを、至極あっさりと、彼は認めた。 それでも彼は、同性に裸体を見られたことに不快を示す瞬の心境を察することはできたようだった。 「確かに、同性でも欲情しそうなほど綺麗な身体だったが――湯につかっても寝たままだったのはおまえだぞ。可愛い顔をして豪胆というか危機感がなさすぎるというか――まあ、おまえが底知れぬ大物だということだけは よくわかった」 危機感を感じていたなら目覚めていたはずだと反論しようとして、瞬はそうするのをやめた。 気を許していたのだと思われるのも癪だったし、彼は、そう思われてしまうことが危険な相手でもある。 瞬は、彼が何者なのかということすら、まだ知らされていなかったのだ。 「で、次のお望みを聞きにきた。聖衣か、食事か」 正体の知れない男が、唇を引き結んだ瞬を見下ろし尋ねてくる。 「聖域に帰る! アテナにドルバルの企みを――」 ほとんど反射的に問われたことに答えてから、瞬は、そんな自分に内心で舌打ちをした。 聖域に帰る前に――帰してもらえたとしての話だが――確かめておかなければならない事実が多々あることに、瞬は遅ればせながら気付いたのである。 何よりもまず、この男の正体と目的。 そして、この金髪の男にこんな振舞いを許しているドルバルの意図を。 「ここはワルハラ宮――ドルバルの城だよね? あなたはドルバルの手先なの?」 「手先どころか、肉親の仇だ。俺が倒したが」 あまりに重大なことを、あまりに淡々とした口調で言われてしまった瞬は、すぐには彼の言を信じることができなかった。 とはいえ、たとえ彼が重々しい口調でそれを告げたのだったとしても、やはり瞬には、すぐには彼の言葉を信じることはできなかっただろう。 聖域の支配を企むだけあって、ドルバルは不気味なほどに強大な力の持ち主だった。 しかも、今 瞬の目の前にいる男は、どう見ても聖闘士や神闘士ではない。 「倒した……? あなたが あのドルバルを? まさか……」 「どれほど強くても、肉親を殺された者の憎しみの強さには敵わないだろう。夫や息子を奪われて、奴に恨みを募らせている者は多かったし、協力者は大勢いた。死を覚悟して武器を取った人間が数百人規模で この城に押し寄せたんだ。ドルバルは自分の力を過信して、この城の警備は手薄だったし、奴が養っていた私兵はすぐに皆 俺たち寄せ手の側に寝返った」 「……」 彼の言うことは本当だろうか? 神でも聖闘士でもない者の手で、あのドルバルは討たれたのだろうか? 彼の説明を聞いても、瞬にはやはり 彼の言は信じ難いものだった。 確かに、この城を覆っていたドルバルの小宇宙めいた澱んだ気配が今は全く感じられないが、このワルハラ宮の主が強大な力を持っていたのは紛うことなき事実で、彼は、聖闘士に匹敵する神闘士をも数人 側に置いていたのだ。 そのドルバルに烏合の衆が何百人向かっても対抗できるものではない――というのが、率直な瞬の考えだった。 烏合の衆を率いる者が、聖闘士かそれに準ずる特別な力を持っているのでない限り。 瞬は、改めて探るように、ドルバルを倒したと主張する男を見やったのである。 そして、もう一度、彼をやはり綺麗な男だと思った。 その綺麗な男が、重ねて瞬に思いがけない言葉を吐いてくる。 「聖域に帰ってもアテナはいないぞ」 「ど……どうして、そんなことが言えるのっ」 「アテナは今、この城にいるからな。テラスでティータイム中。おまえもどうだ? 百聞は一見にしかず、だろう」 「アテナがここに?」 瞬が尋ねると、彼は軽く肩をすくめて頷いた。 「おまえの無断外泊を厳重注意するために、わざわざギリシャから出向いてきたと言っていた」 「……」 いかにもアテナが言いそうなことである。 では、瞬の身を案じて、アテナは自ら この北の国までやってきてくれたのだろうか。 瞬は恐縮すると同時に、心を安んじた。 言われてみれば、ドルバルがいなくなっただけのことで、この城を包んでいた あの澱んだ空気が、ここまで綺麗に消え去るはずがない。 アテナの存在と彼女のまとう空気が、この城に充満していた澱みを一掃したのだ。 やっと見知らぬ男の言葉を信じることができるようになって、瞬は両の肩から力を抜いた。 「お茶に――ク……クッキーくらいあるかな?」 「……探せばあるだろうが」 金髪の男が呆れたような目を向けてきたが、瞬は気にしなかった。 アテナと食べるもの――瞬が今欲しいものはそれだけだったのだ。 |