凝った刺繍の施された民族衣装のような服を借りて、瞬は寝室を出た。
女物のようだったが、夜着を身につけてアテナの前に出るわけにはいかない。
この際、贅沢は言っていられなかった。

アテナは、ギリシャから春の陽射しを伴ってやってきたのか、ワルハラ宮の広いテラスには暖かい陽光が溢れていた。
そこから見える城の周囲の光景は、もちろんまだ純白の雪で包まれていたのだが、その雪すらも、今は陽射しを反射して暖かさを増す鏡の務めを果たしていた。
彼が言っていた通りに――アテナは、本当にワルハラ宮のテラスに置かれたテーブルでお茶を飲んでいた。

「まあ、瞬。連絡が途絶えたから心配していたのよ。氷河が助けてくれたのですって」
「氷河? ……彼と知り合いなんですか」
「ええ、さっき知り合いになったわ」
『氷河』というのがドルバルを倒した者の名であるらしい。
彼の名すら聞いていなかった自身の迂闊に 今になって思い至り、瞬は軽く自分の舌を噛んだ。
だが、瞬には――少なくとも、つい先程までは――、彼の名より食べ物の有無の方が重要なことだったのだ。

「彼は、ドルバルの残虐に耐えかね、志を同じくする人たちと語らってドルバルに対して蜂起したそうなの。聖域に対して野心を抱いていたドルバル教主を倒したのだし、これからは聖域と友好的な関係を築きたいと言ってくれているのだけど、ドルバル教主が聖域支配を企んでいたというのは本当のことかしら」
「それは本当のこと――です。ドルバルは、その知らせを聖域に持ち帰ろうとした僕を捕えて地下牢に幽閉しました」
瞬の言葉に、アテナが頷く。
「聖域への野心はともかく、彼の圧制に苦しんでいた者が多かったのは――証人が何百人といるから事実だったのでしょうね。瞬が無事でよかったわ。彼が見付けてくれたのですって? それだけでも、聖域は彼に感謝しなければ」
「……」

だとしても彼が無礼な男であることに変わりはない――と言いそうになった瞬の前に、お茶と食べ物が運ばれてくる。
運んできたのは、もともとこの城で使われていた者ではないようだった。
おそらくワルハラ宮の襲撃に加わった近隣の村に住む少年なのだろう。
彼は、焼き菓子の他に、お茶の席にはそぐわないパンや肉の燻製が盛られた皿を、テーブルに着いていた瞬の前に置いた。

それがもし氷河の指示なのだとしたら、たった今口にしかけていた言葉の内容が内容だっただけに、手を伸ばしにくい。
瞬がためらっていると、氷河が怪訝そうに声をかけてきた。
「5日も何も食っていなかったんだろう。食わないのか」
「……いただきます」

目の前にあるものを下げられてしまうことを覚悟して、ここで彼への反感を示すことは、今の瞬には到底できることではなかった。
それほどに空腹だったので――瞬は、不本意ながら彼の親切を受け入れることにした。
素朴な形状をした焼き菓子にそっと手を伸ばし、それを少々遠慮がちな仕草で口に運ぶ。
お茶の助けを借りなければ飲み込めないほど、瞬の身体は弱っていたのだが、その一口だけで瞬は生き返ったような気持ちになった。
ゆっくりと噛みしめるように、瞬はそれを味わった。

その食し方が、氷河には意外だったらしい。
不思議なものを見るような目で瞬を見詰め、彼は言った。
「命の恩人への礼儀も知らないアテナの聖闘士は、もっとがっつくのかと思っていたんだが、随分お上品な食べ方をするんだな」
「何日も食べてなかったところに急に大量の食べ物を詰め込んだら、胃が驚くでしょう」
「そういう判断力はあるわけだ」
感心したように、氷河が呟く。
その“感心”は、もちろん半ば以上が嫌味でできていた。
瞬にはそう聞こえたし、事実もそうだったろう。
そう思わざるを得ない言葉を、彼は続けて瞬に献上してきた。

「おまえの胃より、俺の方が驚いた。アテナはこんなに優雅な女性なのに、その聖闘士ときたら、命の恩人に、メシを食わせろ、風呂を沸かせ、聖衣を取ってこい。次から次に命令ばかりして、いったいこの生意気なガキは何様なのかと思ったぞ」
かっと頬に血がのぼるのを瞬は自覚したのだが、彼の言葉が事実なだけに、言い返す言葉が思いつかない。
瞬はきつく唇を引き結んだ。
瞬の無言をいいことに、氷河が彼の言葉を語り続ける。

「アテナ。この はねっかえりは、牢から出してくれたら何でもすると、俺に約束した」
「そんな約束! ドルバルが倒されたっていうのなら、僕はあなたの力を借りなくても、最初から牢を出ることができていたってことになるでしょう!」
相手が何者なのかを確かめることもできないような状態で交わした約束を持ち出され、無理難題をふっかけられても困る。
さすがに黙っていられなくなって、瞬は彼に反論した。

1個の焼き菓子とお茶、そして、アテナと聖域の危機が回避されたという確信が、瞬に気力と負けん気を取り戻させていた。
とはいえ、瞬は本来は比較的大人しく控えめな人間だったのである。
決して氷河が言うような“はねっかえり”ではなかった。
ただ、彼の物言いが いちいち瞬の癇に障り、瞬の語調は我知らず荒くなってしまうのだった。

「誰かが牢の様子を見に行ってみようという酔狂を起こせばな。そんな人間が俺の他にいたとしても、その人間があの地下牢に下りていくのが3日先のことだったら、おまえはあの地下牢で力尽きていただろう。それ以前に、ドルバルを倒したのはこの俺だ」
「……」
瞬も、その点に関してだけは氷河に感謝していた。
アテナと聖域に迫っていた危険を、彼は取り除いてくれたのだ。

「約束を反故にする気か? アテナの聖闘士は図々しい上に嘘つきか」
自分ひとりが そんなふうに蔑まれるならともかく、彼の言い方はすべてのアテナの聖闘士を見下すものだった。
ひいては、アナテの聖闘士を統べるアテナまでをも貶める物言いである。
瞬は、その発言だけは撤回させなければならないと思い、実際にそうしようとした――のだが。
アテナの聖闘士には彼との約束よりも優先させなければならない務めがあり、彼の気まぐれに付き合っている暇などないのだと言い放とうとした瞬を遮ったのは、あろうことか他ならぬ女神アテナその人だったのである。

「瞬。約束は守らなければならないわよ。彼は、言ってみれば聖域を守ってくれた人でもあるのだから」
「それは……そうですけど……」
アテナにそう言われてしまっては、瞬も彼への反撃を諦めるしかなかった。
どうやらアテナは彼を気に入り、信用もしているらしい。
アテナの言うことは、実に尤もなことでもあった。
だが、聖域の恩人がこんな嫌味な男だということが、瞬はどうにも気に入らなかったのである。

「で、あなたは僕に何をしろというの」
それでもアテナに逆らうことはできない。
ほとんど開き直って、瞬は彼に尋ねた。
アテナの聖闘士とアテナを侮辱するようなことまで言って瞬に約束の履行を迫っておきながら、実は彼は、特にアテナの聖闘士に してもらいたいことがあったわけでもなかったらしい。
しばし考え込む素振りを見せてから、あまり気乗りのしていない様子で、彼は瞬に告げた。

「しばらくここにいて、何かしてもらいたいことができるまで、俺の身の周りの世話でもしていてもらうとするか」
「アテナの聖闘士に小間使いの真似をしろっていうの!」
「まあ、それはいい考えだわ。瞬はとても気が利いて、気配りのできる子なのよ。聖域の者たちは皆、揃いも揃って大雑把な性分なものだから、生活面でのこまごましたことに まるで気がまわらないの。私の聖闘士たちは、瞬がいるおかけでなんとか人間らしい生活ができているようなありさまで――」
「そんな気の利く者をお借りしては、聖域の方々が困ることになるのでは?」
「聖闘士たちが瞬のありがたみを知るいい機会になるわ。あなたの提案は、瞬にとっても益のあることでしょう」
「アテナ!」

当の瞬の意思を無視して、アテナが勝手に話を進めていく。
瞬はつい、責めるような口調でアテナの名を叫んだのだが、アテナは、そんな瞬をいなすように軽く首を左右に振った。
「ここに残って、彼の目的を探って」
低く短く瞬に告げてから、アテナはその声を元の音量に戻した。
「あなたが彼との約束を破ると、この私の名誉に傷がつくのよ。彼には、しばらくワルハラを治めてもらわなければならないし」
「こんな若造に?」

アテナの囁きから氷河の気を逸らすべく、瞬はわざとそんな言葉を選んでアテナに異を唱えてみせた。
アテナがさすがに顔をしかめる。
「瞬、どう見てもあなたの方が年下よ」
そう言って瞬をたしなめると、アテナは彼女の聖闘士の無礼を詫びるような目を氷河に投げて、僅かに頭を下げた。

「私は聖域に戻るけど――そうね、週に一度は使いをよこすわ。ワルハラの様子を見るためと、あなたが彼との約束を守っているのを確かめるため」
そうして瞬の反論を遮って、アテナは本当にその日のうちに南の国に帰っていってしまったのである。
彼女に忠誠を誓う聖闘士を、誰一人味方のいない北の国の王宮に残して。






【menu】【II】