氷河の目的を探るようにという指示を残していったところを見ると、アテナは彼を、ドルバルの圧制に耐えかねて やむを得ず 氷河の言うことを“何でも”きかなければならない小間使いとしてワルハラ宮に残されたことは不本意の極みだったのだが、アテナが彼に疑惑を抱いているというのなら、それは彼の腹の内を探るのには最適のポジションである。 瞬は不満を抑えて、与えられた職務にいそしむことにした。 とはいえ、氷河は権力を手に入れることを目論んでドルバルを倒したわけではないようだった――瞬にはそう見えた。 この城に残ったのも、万一残党が城中に潜んでいた時のことを懸念しただけで、この蜂起に参加した者たちには、協議制で今後の方針を決めてくれれば その決定に従うと、彼は言っているらしい。 彼は、『身の周りの世話はアテナの聖闘士がしてくれることになった』と言って、彼に仕えるために城に残ろうとしていた村の者たちも家に帰してしまった。 彼は、アテナの聖闘士を小間使いとして こき使うことは考えても、昨日までの同胞を家来として扱う考えは持っていないようだった。 この城にいる間に自室として使う部屋も、彼はドルバルが使用していた城主の部屋ではなく客用の部屋を選んでいた。 それでも、彼がとりあえずの自室と定めた部屋は 続き部屋のある豪奢な部屋だったのだが、その一事で『彼には野心があるのだ』と断じることは、瞬にはできなかった。 ワルハラ宮には、そもそも質素な部屋というものが存在しなかったのだ。 だからと言って、彼に全く野心がないと言い切ることも、瞬にはできなかったが。 この北の国の支配者としての地位に食指を動かす気配を見せない彼は、聖域には大いに興味を示したのだ。 アテナが聖域に帰っていった翌日、氷河は早速彼の部屋に瞬を呼びつけた。 そして、 「まず教えてくれ。聖域のこと――聖域はどういうところで、聖域はワルハラのことをどう思っているのか」 と、尋ねてきたのである。 「僕には、対外的に知られていることしか答えることはできないよ」と前置きしてから、瞬は彼の質問に答えた。 「聖域にはアテナがいて、聖闘士と、聖闘士の資格を持たない数百人の兵がいて、アテナを首長とする小さな町の形態をとっています。住人の人種国籍は様々で――ある意味では、世界市民主義を採用した独立した国みたいなもの。ワルハラのことは――ドルバルのことを知るまでは、その名を聞いたことがあるくらいなだけだったから、特に何とも――」 「聖闘士は何人くらいいるんだ」 「本当なら88人。でも、今はまだ20人くらいしかいないの。黄金聖闘士も3人しかいない。多分、聖域にこんなに聖闘士がいないのは、聖域始まって以来のことだと思う。だからアテナは聖闘士を探しているの」 それが現在の聖域の実状だった。 瞬がこの北の国に遣わされることになった時も、アテナは本来の仕事の他に、 「もし北方に見込みのありそうな者がいたら、聖域にスカウトしてきて」 という指示を瞬に与えていた。 この北の国で、結局瞬は聖闘士のスカウトどころではない事態に巻き込まれてしまったのであるが。 「探して見付かるものなのか、聖闘士というものは」 「修行をして、小宇宙を身につけて、聖衣がその小宇宙に共鳴すれば、どんな人でも聖闘士になることはできる。もちろん、それは決して容易なことではないけど。今 聖域にいる兵たちのほとんどは、言ってみれば 聖闘士になるための力を身につけることができなかった者たちだから」 瞬自身、聖闘士になるために、常人には耐えられないような修行を耐え抜いてアンドロメダ座の聖衣を身にまとう資格を得た。 あの修行に耐えるには、強い目的意識と強靭な肉体、そして、ある程度の適性と才能が必要だと、瞬は思っていた。 「聖闘士がいない――。ドルバルは、だから、聖域を支配するなら今がチャンスと思ったわけか」 「あんな人にアテナや聖域を支配できていたはずがないよ! あんな下劣でいやらしい――」 それまで客観的な事実だけを口にしていた瞬が、突然 主観だけでできた言葉を吐き始めたことを、氷河は怪訝に思ったらしい。 「何か 下劣でいやらしいことをされたのか」 彼は、瞬が口にした言葉をそのまま用いて アンドロメダ座の聖闘士に尋ねてきた。 「それは――」 瞬がドルバルに それでも瞬は、彼の下劣を感じていた――信じていたのである。 「見ればわかります」 だから、瞬は断言したのである。 しかし、氷河はそれで得心しなかった。 「それらしい男や女を はべらせていたのか」 「それはどうか知らないけど……」 「では、それは根拠のない推察か」 「いやらしい目で僕を見たのっ!」 この男はドルバルの暴虐を憎んでいたのではなかったのか――? という根本的な疑念を、彼の言葉は瞬の内に生むことになった。 普通の人間は、自分が憎む相手を軽蔑したいもののはずである。 そうして人は、自分の憎悪を正当化しようとするのだ。 だから“普通の”人間は、自らの敵の悪口を好むことが多いのだが、どうやら氷河は そういう“不通の”心理を持っていないようだった。 「自意識過剰なんじゃないか? 実際に何かされたわけじゃないのなら。まあ、確かに人を不快にする目付きの男だったが」 そう言って、彼はドルバルの擁護(?)さえ始めたのである。 「そういう目で見られたことのない人には、あの屈辱や不快感はわかりません」 瞬が自身の確信を撤回せずに言い張ると、彼は、処置なしと言わんばかりに両の肩をすくめ――南欧風の肘掛け椅子の背もたれに その身体を預けた。 そして、初対面の時にドルバルがそうしたように、彼の目の前に立つアテナの聖闘士の姿を、頭から爪先まで舐めるように熟視する。 その後 出てきた言葉が『お会いできて光栄ですな』ではないところが、ドルバルの時とは違っていたが。 氷河は、ドルバルよりも下劣な言葉を口にした。 「しかし、そうか。そういう約束の果たさせ方もあるのか」 「どういう意味ですか」 「その綺麗な顔と身体で、俺を慰めてもらうというやり方だ」 ドルバルの時とは違って、全くいやらしくなく、彼はしゃあしゃあとそんなことを言ってのけたのである。 いやらしくないので、からかわれているだけなのだということは瞬にもわかったが、だからといって瞬は、そんなことを平気で言ってのける氷河に腹を立てないわけにはいかなかった。 「そんなことができるわけないでしょう!」 瞬が噛みついていくと、氷河はアテナの聖闘士の はねっかえり振りに呆れたような顔で、瞬に尋ねてきた。 「なら、おまえは何ができるんだ。命の恩人を怒鳴りつけることの他に」 「それは――雪かきとか……」 瞬としては真面目に、ただの小間使いではなくアテナの聖闘士ならではの仕事を提案したつもりだったのである。 しかし、瞬の答えを聞くと、氷河はまるで水を入れすぎた氷嚢が破裂したような勢いで笑い出してしまった。 初めて聞く氷河の明るい笑い声にあっけにとられている瞬に、氷河は、懸命に笑い声を噛み殺そうとしながら提案してきたのだった。 「笑ったのは久し振りだ。決めた。おまえには道化として、俺を毎日楽しませてもらうことにする」 「ど……道化?」 アテナの聖闘士を馬鹿にするにも程があると、瞬は彼を怒鳴りつけようとしたのである。 だが、瞬がそうしようとした時には既に 氷河の顔からは楽しげな笑いは消え去り、その表情は沈鬱そのものとしか言いようのないものに変わってしまっていた。 「不倶戴天の敵を倒したら、もっと明るい気持ちになって、生きていることが楽しくなるかと思っていたのに、存外に空しいものだな」 言葉通りに空しく、そしてどこか寂しげな表情。 氷河にそんな様子を見せられた瞬は、彼にぶつけようとしていた言葉を見失うことになってしまった。 「不倶戴天の敵――って、氷河はなぜ ドルバルを倒したの」 ドルバルは肉親の仇――と、彼は言っていた。 彼がもしドルバルに肉親の命を奪われたというのなら そんなことを尋ねるべきではないし、彼は答えてくれないだろうとも思ったのだが――氷河は長い沈黙のあとで、彼らしくなく抑揚のない声で、彼の境遇を瞬に語ってくれた。 もしかしたら彼の心の内には、自身のことを誰かに話したいという気持ちがあったのかもしれない。 |