「俺には生き別れの兄がいたんだ」
「お兄さん?」
瞬が反問すると、彼は浅く頷いた。
「ドルバルは、自分に忠実な腹心の部下を持つために、近隣の村から、健康で まだほとんど分別もついていないような子供をさらって、奴の戦士に育てることをしていた。俺の兄は、そんな子供たちの中の一人だった。幼い頃にさらわれて、このワルハラ宮で、ドルバルの戦士になるために過酷な教練を受けさせられていたそうだ。ミッドガルドという名を与えられ、母からもらった名も忘れて――。母は、奪われた息子のことを諦めきれず、いつか兄に会える日がくると、自分と俺に言いきかせながら俺を育ててくれた。親父はいなかったから、いつか兄に会えるという希望だけが、俺たち親子の心の支えだったといっていい」

そこまで言って、氷河は窓の外に視線を投じた。
そちらに彼が生まれ育った村があるのか――北の国の王宮の周囲では、また ちらちらと白い雪が舞い始めていた。
「兄は、まあ、才能があったんだろう。長ずるに従って、ドルバルの私兵の中では それなりの地位を得ることになっていたらしい。だが、ある時、自分の身の上を知ってしまったんだな。親兄弟などいないと思っていた自分に肉親がいることを。兄はワルハラ宮を抜け出して、生まれた村に戻ってきた。ドルバルを裏切るつもりだったのか、肉親に会いたいだけだったのか、それはわからないが。もちろん、すぐ追っ手がかかった」

それは雪の日――だったのかもしれない。
氷河は白く儚い雪を厭うように、窓の外に向けていた視線を瞬の上に戻した。
「ドルバルは、それがどれほどの使い手だったとしても、自分への忠誠以外のことに気をとられる部下などいらなかったらしい。兄は母の目の前で殺された。息耐えようとしている我が子に駆け寄った母も、ドルバルの手の者に殺された。情けない話だ。まだ“若造”だった俺は、目の前で起こっていることを理解できず、ただ呆然としていることしかできなかった。3年前のことだ。俺はあっという間に、天涯孤独の身になった」

その時、氷河は、兄に与えられるはずだった分の愛も彼に注いでくれた母と、そして希望とを同時に失ったのだろう。
彼は、彼から肉親と希望を奪った者への復讐を決意し、3年の時を経て その決意を実行、成就した――ということになる。
「しかし、それでどうなるものでもなかったな。ドルバルを倒したところで死んだ者たちが生き返ってくるわけではないし、かえって俺は、復讐を果たしたことで生きる目的を失った――」

権力や聖域への野心どころか――彼は、これから自分が為すべきことすら見付けられずにいたらしい。
アテナの懸念は杞憂――むしろ、全くの的外れだったことになる。
「氷河……」
気遣わしげな目をして瞬が氷河の名を呼ぶと、彼は彼らしくなく――瞬が見知っている彼らしくなく――気弱な笑みを瞬に向けてきた。
「悪かったな。俺はおまえのように、崇高な理想や目的のためにドルバルを倒したわけじゃない。これから何をすればいいのかもわからなくて途方に暮れている情けない男だ」

その時、瞬の内には、彼を慰め力づけ、肉親の死によって彼が失ってしまったのだろう明るい笑顔を彼に取り戻させてやりたいという思いが、圧倒的な強さを伴って生まれてきたのである。
出会った時から腹の立つことばかりされていた、綺麗で気の毒なこの男に。
瞬は懸命に、彼を元気にする方法を考えた。

「じゃ……じゃあ、僕たちと一緒にアテナのために戦うっていうのはどう? それって、氷河にも崇高な理想や目的になり得ることでしょ?」
「……俺は聖闘士などにはなれない。いっそ、おまえに道化として雇ってもらうか」
「僕は真面目に言ってるのっ!」
「無理だ。俺は崇高な理想なんかのためには戦えない。ドルバルを倒したのも肉親の復讐のためだった。俺は誰かのためにしか戦えない。だが、もう誰もいない」
「……」

これだけ立派な体躯を持ち、実際にドルバルを倒すほどの力と強い意思を持った人間を ここまで弱くしてしまう孤独という病。
ならば、彼を孤独でなくしてしまえばいいのだと、瞬は思った。
「なら、恋人を作ったら? そして、その人を守るために戦えばいい」
「それも無理だな」
「どうして? 氷河くらい綺麗で強かったら、どんな女の人だって夢中になるよ!」
世辞を言ったつもりはなかった。
瞬は本当にそう思っていた。
氷河は面立ちも端正で、体格も優れている。
その上、事と次第によっては、このワルハラ宮の新たな主に選ばれることになるかもしれない男である。
女性が恋する相手として、これ以上の男性はまずいないだろう――と。

だが、氷河は首を横に振った。
「おまえみたいに綺麗な人間がいることを知ってしまったら、どんな女を見てもみすぼらしく見える。まったく、アテナの聖闘士ってのは、不都合ばかり運んでくる」
そんな責め方をされても、瞬としては対処の仕様がなかった。
そして、彼に疫病神のように言われることは、瞬には非常に不本意なことだった。

「そんなこと言ったって、僕は男だし、氷河は僕なんかよりずっと綺麗じゃない」
「おまえの美意識もおかしいと思うが。もしおまえの言う通り、俺が“綺麗”だったとして、それで俺に何か得があるのか? ナルシストでもない限り、そんなことは無意味で無益だ」
「……」
氷河のその意見には、瞬も全く同感だった。
男が綺麗でもろくなことはない――ということを、瞬は身にしみて知っていた。

「初めて意見があったね!」
嬉しくなって、時と場合をわきまえずに、瞬はつい笑顔を作って大きく氷河に頷くことをしてしまったのである。
氷河がそんな瞬に苦笑を投げてくる。
「そのようだ」
氷河は自分がまた笑っていることに――笑えることに――驚いたらしい。
彼は、これまでの彼の言動からは思いもよらないほど素直な眼差しで、瞬を見詰めてきた。

「だが、世の男共がおまえに惹かれるのは、おまえが綺麗だからではなく――それもあるかもしれないが、おまえが優しい心の持ち主だということがわかるからだと思うぞ」
青い瞳――見詰めている こちらの方が苦しくなるほど何か・・を求めている深く切ない青い瞳――。
その瞳に出合って、瞬の心臓は大きくはねあがった。

「氷河はそうなの……? そ……そういう人に惹かれるの?」
「そうだな……」
「僕はただのはねっかえりだよ」
「優しい はねっかえりもいるだろう」
癇に障ることしか言えない無礼な男。
つい先程までそう・・と信じていた男の言葉や眼差しのせいで胸を高鳴らせている自分を、その心臓の反応を、瞬は自らの意思で止めることができなかった。






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