アテナの聖闘士には全くふさわしくない仕事だと思っていた氷河の身の周りの世話。
それは、意外なことに、詰まらない仕事ではなかった。
氷河の言葉や眼差しは しばしば瞬の心臓に大きな負担をかけてきたが、それでも氷河と離れている時よりは共にいる時の方が、あれこれ思い煩うことをせずにいられる。
氷河は毎日、主に 広いワルハラ宮内の検分を行なって、衣服や貯蔵庫の食料等を近隣の村に分配する作業の差配をしていた。
その仕事を手伝いながら1週間。
瞬が氷河といることに快さを感じるようになり始めた頃、聖域から、瞬の同輩である星矢と紫龍が、瞬とワルハラ宮の様子を見にやってきた。

「氷河って男におまえが手籠めにされてないか見てこいってアテナに言われて、わざわざ遠出してきた」
「氷河はそんなことしません!」
星矢の冗談なのか、あるいはアテナが本当にそんなことを言ったのか――その判断はつきかねたのだが、いずれにしても瞬は星矢の言をきっぱりと否定した。
眉を吊り上げた瞬に、わざとらしく怖気おじけてみせてから、星矢は、彼が通されたワルハラ宮の絢爛な客間を見まわした。

「まあ、フツーのあんちゃんに聖闘士のおまえを手籠めにするのは無理としても、なんかいいムードだったって、アテナが言ってたから、相手はどんな奴かなーと興味津々で」
ど派手なシャンデリアより問題の男を見せろと言うように、星矢がその視線を仲間の上に戻す。
氷河が客間に入ってきたのは、ちょうどその時だった。

「瞬。聖域から客人が来たと聞いたが、アテナから何か言ってきたのか?」
「瞬が面倒をかけるけどよろしくって、アテナからの伝言」
星矢が『はじめまして』も言わずに、アテナの聖闘士を呼び捨てにする“フツーのあんちゃん”にアテナからの言づてを伝える。
そうしてから星矢は、まじまじと不躾な目で、氷河の観察に取り掛かった。
約1分後、
「ほんとに“若造”なんだな。瞬に目をつけるなんて、どんな助平ジジイかと思ってたのに」
という観察結果を、誰にともなく報告する。

星矢の報告は、他でもない彼の観察の対象物である氷河の興味を引いたようだった。
彼もまた『こんにちは』も言わずに、星矢に尋ね返す。
「瞬は……そんなに そういう輩に目をつけられやすいのか」
「そりゃあ、瞬に目をつける男は星の数ほどいるさ。瞬は、自分の貞操を守るために聖闘士になったんだよな?」
星矢に同意を求められた瞬は、断固とした口調で仲間の主張を否定した。
「違いますっ」
瞬の声は、星矢の声よりよほど大きく明瞭なものだったのだが、それは氷河の耳には届かなかったらしい。

「そうか。なら、俺の感覚が特別おかしいというわけではないんだな。よかった」
「へ……」
氷河は独り言のようにそう言って、瞬の仲間たちに目をみはらせた。
もちろん瞬も驚いたのである。
聖域からの使者に挨拶らしい挨拶も、名を名乗ることすらせずに、氷河は何を言っているのかと。

だが彼は最初からワルハラ宮の様子を伺いにきたアテナの聖闘士たちと親交を深めるつもりはなかったらしい。
「聖域の者なら歓迎する。ゆっくりしていってくれ。……と、この城の主でもない俺が言うのも何だが」
それだけを言うと、氷河は、結局挨拶も自己紹介もせずに、無駄に豪華な客間からさっさと退室してしまったのである。
もしかしたら彼は、聖域の者たちだけで話したいこともあるのだろうと考えて、アテナの聖闘士たちに気を利かせてくれたのかもしれなかった。
アテナの聖闘士しかいなくなったワルハラ宮の客間で、アテナの聖闘士たちが語り出した話の内容は、全く政治向きの話ではなかった――なりようもなかった――が。

「あいつ、ほんとにおまえに気があるのか?」
「そ……そんなことあるはずないよ」
「しかし、そうとしか見えなかったぞ」
「え?」
星矢にからかわれるように言われたのであれば笑って受け流すこともできるが、真顔かつ真面目な口調の紫龍の発言には、妙な真実味があった。
「何か寂しそうな奴だな。自分が生きていることに意義を見い出せていないような」
鋭い洞察眼を発揮する紫龍の言に、ますます信憑性が加わる。
とどめが、
「おまえもあの男が気になっているように見えるが」
――だった。
紫龍が語ると、それが確とした根拠のない推察にすぎなくても事実に聞こえてしまうのが、龍座の聖闘士のたちの悪いところだった。
紫龍の真顔と生真面目な口調は、彼の最大の武器なのだ。

「き……気になってなんか……」
つい どもってしまった瞬に、紫龍が追い討ちをかけてくる。
「今までのおまえなら、男にあんなことを言われたら、この城くらい瞬時に破壊していたはずだ」
「ぼ……僕はそこまで癇癪持ちじゃないよ。せいぜいこの部屋を壊すくらいで……。それに言ったでしょ。氷河はそんなことはしないよ。考えてもいない!」
「あそこまではっきり言われているのに、おまえのその信頼はどこからくるんだ」
「あそこまではっきり言い切る奴の方が珍しいよなー。冗談で言ってるようにも見えなかったし」

それでも、氷河のあれは冗談に決まっている――と、瞬は少し寂しい気持ちで思った。
今の氷河はそんなことを考えられるほど心に余裕を持っていないのだ。
「氷河は……とても気の毒な人なの。家族をみんなドルバルに奪われて、復讐を果たしても、一人ぽっちで寂しくて――」
「おまえ、そういうの放っておけないたちだもんな」
「瞬の最大の美徳だ。励まして、力づけてやれ」
「うん……。でも、僕に何ができるのか――。僕は氷河が失ったものの変わりになんてなれないし」
「……」

アテナから聞いていた話とは、様相が全く違っている。
星矢と紫龍は、
「瞬は氷河に反発ばかりして、気が立っているようだったから、少しなだめてきてちょうだい」
と言われて、このワルハラ宮にやってきたのだ。
それが――。
見ると聞くとでは大違いとは、まさにこのこと。
自分に対してあんなことを言ってのける男のために真剣に悩んでるらしい瞬を見て、星矢と紫龍は互いに顔を見合わせることになったのである。

ともあれ、第三者がけしかけるまでもなく、事態は順調に進展しているらしい。
それを確かめることさえできれば他に用もなかった星矢と紫龍は、その日のうちにワルハラ宮を出て聖域に帰ることにしたのだった。

「アテナは、氷河を瞬に惚れさせて、氷河を聖域に来る気にさせろって言ってたけど――瞬の方が氷河に惚れて、ここに残るとか言い出しそうな雰囲気だな。すげー意外。瞬はそういう趣味、毛嫌いしてたのに。やっぱあれか。氷河が綺麗な男だからか?」
「それは何とも……。しかし、瞬はアテナの聖闘士だから、聖域にいようがいまいがアテナの召集には応じるだろうし、どこにいても問題はないだろう。問題は、やはり氷河だな。アテナは、氷河には野心の類はないと断言していたが、復讐のついででも こんなでかい城を手に入れた男が、はたして一介の戦士として聖域に来る気になるものかどうか――」
「だから、アテナは、瞬をエサにして、氷河を釣り上げようとしてるんだろ。聖闘士集めのためなら、手段を選ばないよな、アテナは」
「それだけ、今の聖域に危機感を抱いているということだろう」
「聖闘士絶賛募集中だもんな」

アテナが瞬をワルハラ宮に残したのは、氷河の目的を探らせるためなどではなく、聖闘士をひとり釣り上げるためのエサだった――ということを瞬が知ったら、どういうことになるか――。
その事実を瞬に告げないだけの分別を、星矢と紫龍は持ち合わせていたが、目的のためになら手段を選ばないアテナのたくましさには、彼女の聖闘士である彼等も嘆息しないわけにはいかなかった。






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