氷河の望みは、決して叶わぬ望み――ではなさそうでした。 アテナの神託があった日から半年、国内外の様々な立場の少女たちが何百人もアテナ神殿の聖壇に贈り物を捧げたにも関わらず、アテナの小箱の蓋は一向に開く気配がなかったのです。 『今日も誰もアテナの小箱の蓋を開けることはできなかった』という知らせを聞くたびに、氷河は内心で安堵の息を洩らしていました。 このまま、何も変わらず緩やかに時は過ぎていく――氷河は、そんな気持ちにさえなっていたのです。 ところが。 毎日幾人もアテナ神殿に詰めかけていた少女たちが ことごとく失敗し、アテナ神殿を訪れる少女たちの姿もまばらになり始めた頃、大変な事件が起きてしまったのです。 大変な事件――それは、この国のある大貴族の青年がアテナ神殿に忍び込み、アテナの小箱の蓋をこじ開けようとしているのが見付かったことから始まりました。 最初、青年の行為は、彼の親族の娘のための愚行かと思われたのですが、事実はそうではありませんでした。 見張りの兵に捕えられ、瞬王子の兄君の前に引き出された その貴族の青年は(当然、男子です)、アテナ神殿に忍び込み、アテナの小箱をこじ開けようとしたのは、自分自身のためにした行為だったと白状したのです。 自分が瞬王子を手に入れたいから そうしたのだと。 瞬王子にふさわしい娘など この世にはいないのではないか――と、ギリシャ中の人間たちが考え始めていた頃に起こったこの事件。 この事件は、アテナの神託の盲点を国中・ギリシャ中に知らせることになりました。 アテナの神託は、アテナの小箱の中にある羊皮紙に書かれているものと同じ贈り物を贈った人物が瞬王子を永遠に手に入れるというもの。 アテナの神託はそれを『少女』と限定していなかったのです。 瞬王子を手に入れる権利を有する者は、少女に限ったことではないのです。 かくして、アテナの神託が下される前の静けさを取り戻しかけていたアテナ神殿の周囲は、再び、そして以前よりはるかに慌しい喧騒に包まれることになりました。 我こそはと意気込んだ各国の王や王子、国内外の貴族たちが、様々な贈り物を抱えてアテナ神殿に詰めかけてきたのですから、その騒ぎは尋常のものではありませんでした。 当時のギリシャでは、異性愛より男子同士の同性愛の方が高位にある愛とされていました。 瞬王子はとても綺麗で、気性も穏やか、目が見えないせいもあって、どちらかといえば控えめで大人しく、その上、何と言っても由緒正しい王家の血を引く高貴な存在。 瞬王子は、そういう趣味の男性陣には――そういう趣味の持ち主でない男性陣にとっても――垂涎の的だったのです。 彼等は、高貴な王子様と結ばれることを夢見る少女たちよりずっと熱心で、積極的で、大胆でした。 瞬王子に捧げる贈り物も、豪奢な館だの、植民市を一つだのと、どんどん大袈裟なものになっていきました。 氷河はいらいらしながら、アテナ神殿に詰めかけている男たちの話を聞くことになったのです。 そのすべては失敗の報告でしたが、瞬王子を手に入れようとしているのが、少女ではなく自分と同じ男だということが、氷河の気持ちをいちいち逆撫でしたのです。 それだけではなく――氷河の気持ちを苛立たせる原因はもう一つありました。 それは、実際にこの騒ぎを引き起こしている者たちの中に、瞬王子の気持ちを考えている者はただの一人もいない――と思えることでした。 今アテナ神殿に詰めかけてきている男たちと、先日まで引きも切らずにアテナ神殿を訪れていた少女たち。 彼等の中に、瞬王子の気持ちを考えている者はただの一人もいないように、氷河には思えたのです。 彼等は彼等にとって価値があると思える贈り物を持って、アテナ神殿にやってきます。 彼等は、瞬王子が何を望んでいるのかということを、全く考えていないのです。 瞬王子が何を望んでいるのかということを一瞬でも考えたことがあるのなら、瞬王子にふさわしい贈り物を探し当てることができるかどうかはともかく、金や宝石が瞬王子にふさわしい贈り物ではないことくらい わかるはずではありませんか。 瞬王子の気持ちを考えもせず、ひたすら自分の価値観だけに従って贈り物をアテナ神殿に運ぶ者たちに、氷河は怒りさえ感じていました。 ほんの少しだけ――この憤りは、瞬王子に贈る物を何も持たない一介の護衛兵の僻みなのかもしれないと思うことをしながら。 |