氷河の父祖はマケドニアより更に北方の国からギリシャに連れてこられた者たちだった。
氷河自身はギリシャで生まれた。――奴隷の子として。
彼がバルバロイの国の王に選ばれたのは、最初の反乱を企て指揮した者だったからである。
まだ20代の青年にすぎない彼は、もちろん経験や血筋によって王に選ばれたわけではない。
彼の計画性と決断力・実行力が、彼をバルバロイの国の王にした。

とはいえ、彼が反乱を起こしてまで求めたものは自由と人間としての尊厳であり、王位などではなかった。
始めは、そんな役どころは自分には向いていないと王位を固辞していた彼が、その地位に就くことを決意したのは、自由と人間としての尊厳を望んでいる奴隷が自分だけではないということを知った時。
自分が起こした反乱に従ってくれた者たちに彼等の望むものを与えることが、自分に課せられた務めだと気付いた時だった。

その氷河にクレタ王家の姫を王妃として迎える計画を最初に提案してきたのは、奴隷でありながらアテネのアカデメイアに迎えられていた黒海北辺出身の老哲学者だった。
ギリシャ最大の国となったバルバロイの国を、独立した主権国家としてギリシャの“人間たち”に認めさせるには、彼等の思い上がりと権威主義を逆手に取るのが最も有効な方策だろうと、彼は言い出したのである。
この計画が実現すれば、ギリシャの国々は否が応でもバルバロイの国を一つの主権国家として認めざるを得なくなる。
たった一人の姫君を手に入れることで、戦を起こさなくても この国を独立国家としてギリシャ人たちに認めさせることができるのなら――と考えて、氷河は見知らぬ少女を自分の妻に迎えることを承知した。

ギリシャには千になんなんとする大小様々の国があったが、それらの国々の中でもクレタは最も古い歴史と高い文化を誇る小王国だった。
クレタ島にクノッソス宮殿を建てたミノス王は大神ゼウスの子、その妻パシパエは太陽神ヘリオスの娘。
クレタ王家には、そうそうたる神々の血が流れている。
現在はアテネやスパルタ等に比して さほどの国力を保っているわけではなかったが、それでもクレタはギリシャの国々の中で一段高いところにある国だった。
人間の造った国の中で最も誇り高く高貴な国。それがクレタだったのだ。

氷河がバルバロイ王国の王の名で その旨をクレタ王家に伝えると、ほどなく、『現在のクレタ王家には年頃の独身の姫がいない』という断りの返事が返ってきた。
だが、それは微妙に事実とは異なっていたのである。

クレタ王家には、有名な独り身の姫がいた。
クレタ王国は、クレタ島の中心にある万神殿パンテオンに王の名代として清らかな王女を捧げることによって、神々の加護を受けている(とされている)王家だった。
王宮に独り身の王女はいなくても、王国内に夫を持たない姫はいる。

ギリシャで最も古く由緒正しい王家の、最も高貴で清らかな巫女姫。
その姫君をバルバロイの王の妃とすることができたなら、ギリシャ各国の“人間たち”は、バルバロイの国の力を認めないわけにはいかなくなるだろう。
他国の姫や、クレタ王家の他の姫では、各国に与える衝撃は少ない。
この地上で最高の姫を、バルバロイの国は王妃として望んでいた――必要としていたのだ。

氷河は断りの返事を受け取ってからも、繰り返し 姫をバルバロイの国に送ることを要求し続けた。
決して武力をちらつかせて脅したわけではなかったが、軍隊らしい軍隊を持たず歴史と高い文化を誇る優美なだけの国は、沖天の勢いで隆盛を極めているバルバロイの国からの度重なる要請に逆らい続けることはできなかった。

巫女姫が仕える神殿の神官長がバルバロイの国にやってきたのは、氷河の5度目の督促の使者がクレタ島に向けて船を出した半月後のことだった。
神官長は、奴隷の国の王の玉座の前で腰を低くして、氷河に人払いを求めた。
氷河がその願いを聞き入れた玉座の間で、彼は、
「姫の純潔を保つ結婚なら、クレタ王家は貴殿の要求を受け入れます」
と告げたのだった。

「……」
咄嗟に意味が理解できず眉根を寄せた氷河に、クレタの年老いた神官長は苦渋に満ちた表情で言葉を重ねた。
「貴殿が他のどのような身分の女に生ませた子供でも、姫はその子を姫の実子として承認します。クレタ王家の血を引く子として公に認め、実際の養育も行なう。しかし、貴殿は決して姫には触れないでいただきたい。この条件さえ飲んでくださるのなら、姫はあなたの妻になってもよいとおっしゃいました」

そんな婚姻があるものかと、氷河は、馬鹿げた提案をしてくるクレタの神官長の顔を見おろしたのである。
馬鹿げた提案――だが、それは、奴隷の国の力に屈せざるを得ない高貴な王家の姫としては、至極自然な考えなのかもしれなかった。

「つまり、故国のために奴隷の国に嫁することはするが、下賎の者に触れられることには耐えられないというわけか」
「姫君は、神々に仕える巫女として、その純潔を神に誓った姫なのです。我が国は神々に汚れなき処女姫を捧げることで、神々の庇護を受けている。万一、その姫が汚れたりすることがあったなら、我が国は神々の怒りを招き破滅しかねない。クレタの民は不安におののき、国の存続自体が危うくなるでしょう。せめてクレタ王家の血を引く者が他の姫を生み、その姫を神殿に捧げることができるようになるまで、我が姫がその純潔を失うことはあってはならない。あなた方に武力によって滅ぼされるか、神によって滅ぼされるか、その両方を避けようとしたら、これがクレタ王家に採ることのできる唯一の道なのです」

神官長の本当の望みは、氷河が彼の要求を取り下げることだったろう。
しかし、氷河にはそうすることはできなかった。
これは、彼を王と戴く数十万人の奴隷たちの“人間”としての尊厳がかかった、誰にも譲れない問題なのだ。

「その清らかな姫が俺の子を生んだと公言したら、結局は神々の怒りを招くことになるのではないか」
「姫が真実 清らかでありさえすれば、神々はお許しくださるでしょう。神はすべてをお見通しです」
「神はそれで納得するにしても、クレタの民は不安に思うのではないか。清らかであるべき姫が、よりにもよって奴隷の子を生んだと知らされたら」
「その時には、我々は姫はまだ清らかなのだと民に告げます。かの国で姫の子とされている子供は本当は姫の子ではないと」
「それでは俺の立場がなくなる」
「あなたは、あなたの御子を姫との間に生まれた子だと言い張ってくださればいい。あなたの後継者はクレタ王家の血を引いていると。民は真実を知らなくていい。真実は神だけが知っていればいいのです」

さすがは栄枯盛衰が習いのギリシャで数百年間 生き延びてきた王家のやり口である。
王に、自国の民を騙せと進言してくるとは。
だが、このしたたかさがなくては、国を永く存続させることはできないのかもしれない。
国の統治者が これほどの老獪さを有していなければ、国の経営は立ち行かないものなのかもしれない。
氷河は我が身に課せられた義務と責任の重さを改めて自覚することになった。

「俺が力づくで姫を犯したら」
「それは不可能です。姫は自分が汚される前に命を絶つでしょう」
「絶たなかったらどうする。己れの身が汚れても、神の怒りを買っても生き続けたいと、姫が願ったら」
「それはありえません」
クレタの神官長は自信を持って氷河に断言した。
氷河にはそれは、『姫は、神の怒りを恐れているのではない。奴隷ごときに我が身を汚されて生きることは、クレタの姫には死よりも屈辱的なことなのだ』という侮蔑の言葉に聞こえたのである。

「いいだろう。別に恋焦がれて迎える妻でもない。大事なのは、由緒正しいクレタ王家の血を引く姫が、奴隷あがりの兵士が建てた国の王の妻として、この国に王宮にあることだ」
自虐的にそう告げて、氷河はクレタ王国の要求――あるいはそれはクレタ王国の妥協だったのかもしれないが――を受け入れたのである。

クレタの神官長は巫女姫の誇り高さに絶対の確信を抱いているようだが、彼女が真実そこまで純潔にこだわる姫かどうかも怪しい。
氷河はこれまでにギリシャの幾つかの王宮で兵として仕えてきたが、彼はその際、牛馬同然と蔑む奴隷たちに男女を問わず性的に奉仕させる王侯貴族の乱倫を、うんざりするほど見てきた。
クレタの姫だけはそうではないと、誰に言えるだろう。
姫が奴隷のとの間に子を成せばよし、そうでなかったとしても彼女には利用価値がある。
ギリシャで最も高貴な、神の血を引くとさえ言われている姫が、名目だけでも奴隷の妻になり、奴隷の国の王にかしずくのだ。
これは、家畜のように扱われてきた奴隷たちの、“人間”に対する最高の勝利だった。






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