ギリシャで最も清らかな姫君がクレタ島から奴隷の国にやってきたのは、それからひと月後。
ギリシャの国々の“人間たち”はクレタ王家でも逆らえないバルバロイの国の力に瞠目し、また戦慄することになったのである。

クレタ王家の船から降りた花嫁は、巫女の衣装ではなく男性の神官の服を、その身にまとっていた。
軽やかなドレスを着せたら、もしかしたら美しい姫なのかもしれなかったが、それも推測の域を出ない。
彼女は、我が身を俗界の汚れから遮断するように幾枚もの布を重ねて肢体を隠し、顔も フードを深く下ろすことで人目にさらされることを避けていた。
しかし、その神官用の長衣の袖から覗く白くなめらかな手指、裾から覗く小さな白い足を見れば、彼女が労働と名のつく行為をしたことのない姫だということは嫌でもわかってしまう。
氷河は、明日には彼女の夫になろうという男に顔も見せないクレタの姫に、憤りと、そして軽蔑を覚えたのだった。


奴隷の王の婚姻の儀式には、ギリシャ各国の王、支配者たちが列席していた。
氷河は、バルバロイの国の勝利を見せつけるために、可能な限り多くの国々に婚姻の儀式に招待する遣いを送ったのである。
彼等は、この招待に応じたくはなかっただろう。
だが、その招待を拒むわけにもいかなかった。
バルバロイの国は、今や、ギリシャ全土の5分の1の領土と、ギリシャの人口の4分の1を有する強大な国になっていたのだ。

各国の王侯貴族や使節たちの憮然とした表情。
巫女姫の輿入れに従ってバルバロイの国にやってきたクレタの貴族たちの沈痛な面持ち。
ギリシャで最も強大な国の王と、ギリシャで最も高貴な国の王女の婚姻の式は、決して一点の翳りもなく華やいだ祝賀の空気に包まれて執り行なわれたわけではなかった。

バルバロイの国の代表者として式に列席した元奴隷たちだけが、その瞳を輝かせていた。
信じられない光景を見る面持ちで、彼等は彼等の国にやってきた高貴な王女の、さすがに品のある立ち居振る舞いの一つ一つを、目を皿のようにして見守っていたのである。
つい先日まで人間として認められることもなく、牛馬と同じように売り買いされていた奴隷の王の許に、“人間”の中で最も高貴な姫君が妻としてやってきた。
自由民どころか王侯貴族でさえ触れることの叶わない清らかな姫が、今宵 奴隷の国の王にその純潔を捧げるのだ。
彼等は、奴隷として生きてきたこれまでの人生に これで復讐が成ったと、溜飲を下げているわけではなかった。
彼等は、ただただこの現実が信じられず、驚いていた。

しかし、クレタの巫女姫の降嫁――それは降嫁だったろう――に最も驚くことになったのは、彼女の夫となる当の氷河自身だった。
婚姻の女神ヘラへの誓いの場で、初めて間近に見たクレタ王家の姫君の顔――と、瞳。
“人間たち”の中で最も高潔な人間であるクレタの姫は、その評判を裏切らず、むしろその評判を超えて清らかな風情をしていた。

まだ10代半ば
その純潔は疑いようがない。
エメラルドよりも透き通った大きな瞳と、滑らかな肌。
奔放なギリシャの自由民の娘や 素朴な奴隷娘たちのそれとは全く異質の美しさを、クレタの巫女姫はたたえていた。
人間たちの中で最も高貴な姫君の美しさと清純は、人間離れしていた。
人間ではないもののように無垢で、むしろ彼女は 人間が人間になる前の何ものかであるように見えた。

どんな人間にも、生きていたいという欲はあるはずである。
奴隷に犯されるくらいなら命を絶つと言い張る女などいるはずがない。どれほど高貴な姫君でも、結局は力に屈するだろうという自分の推測(期待)は間違っていたかもしれない――と、クレタの姫の様子を見て、氷河は思ったのである。

氷河が最も驚いたのは、元は一介の奴隷にすぎない夫の姿を見ても、彼女の瞳に蔑みの色が浮かんでこなかったことだった。
彼女の眼差しはただただ悲しげで、自身の運命におそれおののいているように見えた。
クレタの姫の名は瞬といった。






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