婚姻の宴は深夜まで続き、その後バルバロイの国の王と王妃は、初めての床入りをするために彼等の寝室に入った。
形ばかりの床入りで済ませずにすむのなら それが最善と考えていた氷河は、閉じられた空間に新妻と二人きりになると、当然の権利として瞬の身に着けている服に手をかけ、二人のために用意された寝台に彼女を引き込もうとした。

相手は、周囲の者たちの『国を守るため』という説得や強要に抵抗できず、泣く泣く奴隷の国に運ばれてきたのであろう少女である。
こちらが強引に事を進めていけば、抗う気力も持てない非力な新妻は、結局は大人しく夫の力に従うだろうと、氷河は踏んでいた。
何といっても、クレタとの約定を守って清らかな関係を保ち続けるには、あまりにも彼女は美しすぎたのだ。

が、瞬は氷河の手から素早く身を引いた。
自分の夫を見上げる彼女の瞳には、困惑と驚きの色がたたえられている。
その瞳に奴隷に対する蔑みはないと感じたのはやはり錯覚だったのかと、氷河は少なからぬ落胆を覚えることになった。

「約束が違います」
初めて聞く妻の声がそれだった。
厳しい拒絶の言葉を聞かされてしまった氷河は、妻の美しさと純潔に畏怖する夫でいることができなくなってしまったのである。

「女神ヘラの前で婚姻の誓いを立てたというのに、クレタ王家の高貴な姫君は 汚らわしい奴隷あがりの男には触れられたくないというわけか」
軽蔑には軽蔑で応えなければならない。
あるいは力で反撃しなければならない。
そうしなければ、一方的に侮られ見下されて自身の立場を弱くするだけだということが、奴隷として生きてきたこれまでの人生の中で氷河が学んだ、己れの矜持を守るための唯一の方策だった。

「そういうわけではありません」
意外に反抗的な響きのない返答が返ってくる。
クレタの姫君は、自分の弱い立場を自覚してはいるようだった。

「なら、なぜだ。言っておくが、俺はおまえと同じ人間だ。この身体には おまえと同じ赤い血が流れている。それとも高貴な王家の姫君の血は青いのか」
「僕はそんなことは――」
「たまたま俺の何代か前の先祖が、おまえたちの先祖に戦で負けて、故郷から引き離され、ギリシャに連れてこられた。彼等はギリシャ人たちに家畜と同じように扱われているうちに、自分が人間であることを忘れさせられてしまった。だが、忘れているだけで――忘れていただけで、俺たちは確かに人間なんだ!」

世間知らずのお姫様に、自分は何を力説しているのかと、氷河は自分自身を疑ったのである。
力を手に入れ、“人間”の中で最も高貴な人間を奴隷の妻にした。
その非力な妻にねやを共にすることを拒絶されたくらいのことで、ギリシャ世界に対するこの勝利の価値が減じることはないというのに。

「生活を成り立たせる仕事のみならず、あらゆる労働、戦までをすべて奴隷に肩代わりさせて、それでギリシャの人間様たちが何をしているかと言えば、音楽だ舞踊だ哲学だと腑抜けたことばかり。そんな人間様たちが、奴隷である俺たちに勝てるわけがない。俺たちは毎日が命がけだった。生き抜くための力と術を嫌でも身につけなければならなかった。クレタの高貴な姫君が俺に純潔を奪われるためにここにいるのは、ギリシャ人たちのこれまでの怠惰が招いた当然の結果だ」

すべてのギリシャ人の傲慢と怠惰の罪を、なにもこんな細い肩をした少女に追わせることはない。
瞬に怒声を浴びせかけながら、氷河はそう思っていた。
もし瞬に罪があるとしたら、それは神殿の奥深くに閉じ込められていた彼女が 氷河の苦しみを知らずにいたことだけで――だが、それは瞬に責任のあることだろうか――と。
自分が瞬に向ける怒りの理不尽がわかっていても、だが、氷河は叫ばずにはいられなかったのである。
こんな弱音を、本当に罪を犯していたギリシャ人たちに聞かせるわけにはいかなかったから。

今にも彼の妻に掴みかからんばかりに気色ばんでいる自分の夫を、瞬はつらそうな眼差しで見上げてきた。
そして、抑揚のない声で告げる。
「僕があなたに勝てるわけがない――というのは事実だと思います。奴隷も自由民も王族も貴族も、結局は同じ人間。強くなろうとした者が、その努力を怠った者より 強くなるのは自然の理です。でも――」
「王族も奴隷も同じ人間だと?」

氷河の反問に、瞬は一瞬たりとも躊躇することなく頷いた。
その上で、瞬は臆した様子もなく、いきり立っている彼女の夫に意見してきた。
「おそらく、あなたは自分の国を統治するために、昨日まで奴隷と呼ばれていた人たちの中から、あなたの意に沿う人物や有能な人物を選んで、国政の重要な地位に就けるでしょう。百年後には、あなたやあなたの登用した人たちの子孫が王族や貴族として この国に君臨することになる。そして、彼等は他の誰かを奴隷にし、虐げていることでしょう。その中には今は自由民として尊大に振舞っている人たちの子孫もいるかもしれない。身分というものは、そんなふうにして作られていくものです」

美しいだけの世間知らずかと思っていたら、瞬はなかなか想像力に優れた聡明な姫のようだった。
瞬の指摘は氷河の懸念と一致するもので、氷河は、彼がこの国の王に選ばれてからずっと、その可能性を消し去るための方策を考え続けていたのだ。
「俺たちが新たな奴隷を生むとでも? 俺はそんな国は作らない! 絶対に!」
そのためにはどうすればいいのか――有効な策を、氷河はまだ具体的に思いついてはいなかった。
それでも彼は断言した。
その理想――あるいは夢と言うべきなのかもしれなかったが――が実現されなければ、ギリシャという世界の中にこの国ができた意味がない。
氷河の断言を聞いた瞬は、はっとしたように息を呑み、そしてその瞳を見開いた。

「俺は誰もが平等で自由で――奴隷などいない国を作るんだ。民の一部が特権階級の者のために使われるのではなく、誰もが自分と自分の家族のために等しく労働する国を」
生きるために命を削るという矛盾した奴隷の生を、瞬はおそらく知らない。
生きることをつらいと感じたこともないのだろう世間知らずの姫君に、氷河はそんなことを言うつもりはなかった。
言っても詮無いことと思っていた。

にも関わらず、それを口にしてしまったのはなぜだったのか――。
奴隷を軽蔑しているのだろう苦労知らずの姫君を軽蔑することで自身の矜持を守ることはできるはずなのに、なぜ。
その答えは、すぐにすぐに氷河の上に降ってきた。
それは、自分がこの姫を軽蔑しきれていないからなのだ――と。
軽蔑することのできない相手には自分を理解してほしいし、尊敬されたいと思うのが、人間というものである。
そんな自分の心の変化を自覚し、そんな自分を意外と思い、そして、氷河はあることに気付いた。

「おまえは、この国が百年続くと思っているのか? 俺はてっきり、クレタの王家は、近いうちにこの国を滅ぼし去り おまえを取り戻すための画策をしているものとばかり思っていた」
瞬が、氷河の推察に首を横に振る。
瞬は、故国にそんなことができる力はないと思っているようだった。

「続かせてください。百年二百年五百年千年――国が消えることは不幸な民を生む。混乱が生じ、それは争いにも発展しかねない。そうなれば、その争いの中で傷付く人も大勢出るでしょう。争いのない平和な国が永く存続してくれるのなら、僕はその国を統治する者が誰だろうと構いません。僕はそのために――これ以上の争いや混乱を招かないために、あなたの許に来ることを決意したんですから。平和の実現のために――」

「平和の実現? そうではないだろう。自分と自分の国紫の特権を守るためだろう」
「その気持ちがないわけではありません。僕の国があなたの国と争ったら、滅びるのは僕の故国の方でしょう。クレタの民は、自分たちを神に選ばれた人間だと思っているので、あなたに戦を仕掛けられたら応戦してしまうかもしれない。その争いは必ず多くの人々を苦しめ、多くの命が失われることになる。いけませんか。僕は争いを避けたい。そのために自分にできることは何でもする。戦で苦しむ人を生むのは嫌です。戦が起きたら必ず勝利するだろう あなたの国とあなたの同胞だって、完全に無傷ではいられない。僕は――」

瞬は心から、自分はそのためにこの婚姻を受け入れたのだと考えているようだった。
人と人とが争い 傷付け合うことを避けるために、自分はここにいるのだと。
氷河には氷河の実現したい夢と理想があるように、瞬には瞬の望みがあるらしい。
氷河は、だが、瞬のその美しい望みに素直に感動することはできなかったのである。

「平和の実現の何のと綺麗事を言い、そのために奴隷と妥協することはできても、奴隷だった男に触れられるのは嫌だというわけだ。形ばかり屈してみせても、おまえの心の内に奴隷への軽蔑がある限り、俺たちの国とギリシャ人たちとの間に真の平和や理解は生まれないだろう。いつかは戦が起こる」
「あなたに限らず、僕は誰にも触れられるわけにはいかないんです」
「奴隷は奴隷を抱いていろと言うわけか」
「あなたくらい強くて美しかったら、他国のどんな姫君だって、喜んでその胸に抱かれるでしょう。でも、僕はこの身を汚すことは許されていないんです」

他国の姫がどう考えどう振舞おうと、そんなことは氷河には何の意味もないことだった。
今 彼の前にいるのは、喜んで奴隷の国の王の胸に抱かれるかもしれない他国の姫ではなく、頑として奴隷の妻になることを拒むクレタの姫なのだ。
「俺はおまえを力づくで犯すこともできる」
「そうして、僕の意思を無視し、力で僕を押さえつけて、僕をあなたの奴隷にするというわけですか」

瞬が、いっそ見事と賞讃したいほど鮮やかに、氷河の言葉の矛盾を突いてくる。
氷河は、即座に反駁の言葉を思いつくことができなかった。
トロイアのパリスに踵を射抜かれたアキレウスが、自身の運命を悟った瞬間にこんな気持ちになったのかもしれないと、氷河は思ったのである。
氷河にできることはただ、
「俺は奴隷だけは作らない」
彼の目指す理想を再度口にして、奴隷の国の王夫妻のために用意された新床にいどこのある部屋から立ち去ることだけだった。






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