瞬は、へたに機転が利くだけに だが、氷河は、彼の臣や彼の民たちに、奴隷の王はギリシャ人たちの頂点に立つ高貴な姫君を思う様 蹂躙していると思われていなければならなかった。 奴隷でも力を持てば人間を屈服させることができると、信じさせておかなければならなかったのである。 だから俺は瞬の許に行くのだ――と自分に言い訳をして、氷河は翌日の夜も瞬のいる部屋に向かった。 昨夜 瞬の前に露呈してしまった奴隷の卑屈と傲慢を瞬はどう考えているのか――軽蔑しているのか、嘲っているのか――と、氷河の胸中は決して穏やかではなかったのだが、無理に尊大なふうを装って。 「氷河!」 瞬は、あろうことか、その瞳を明るく輝かせて――どう見ても、氷河の訪れを喜んでいるとしか思えない様子で――彼女の名ばかりの夫を出迎えてくれた。 「怒って……もう来てくれないのかと心配してたんです。よかった……!」 想定外の瞬の笑顔に、氷河は思いきり面食らってしまったのである。 奴隷の夫を その寝室に迎え入れる瞬の声は、まるで恋焦がれている恋人の訪れを歓迎する少女のように弾んでいた。 「そうはいかない。クレタの高貴な姫君が 奴隷である俺の腹の下で泣いていることを、この国のすべての者が期待しているんだ。振りにでも、俺は その期待に応えてやらなければならない」 困惑が、氷河に下卑た言葉を吐き出させる。 瞬は、氷河の物言いに、その表情を にわかに悲しげなものにした。 そして氷河は、そんな言葉で己れの誇りを守ろうとする自分自身に苛立ちを覚えることになったのである。 せっかくの瞬の、思いがけない笑顔。 明るく温かく咲きほころぶ花のような笑顔を曇らせるようなことを、なぜ自分はしてしまうのかと、自分の中にある子供じみた意地に腹が立った。 だが、瞬は、氷河の卑しい意地に傷付いて、その瞳を曇らせたのではないようだった。 「奴隷でいることは、そんなにつらいことなの……」 瞬は、そう だから氷河も、つい正直になってしまう――嘘をつき通すことができなくなってしまったのだ。 「俺は、憎んでも飽き足りない“人間様”の命令で戦争に駆り出され、俺と同じ奴隷でできた軍と――憎んでもいない相手と戦わなければならなかった。その屈辱と苦しみが、おまえにわかるか!」 「……」 圧倒的な優位にいる自分が、圧倒的に弱い立場にいる瞬に、なぜそんな弱音を吐いてしまうのか。 氷河は、自分で自分がわからなくなりかけていた。 「ごめんなさい……」 そんな氷河の前で力なく項垂れ、瞬がつらそうに謝罪の言葉を口にする。 高慢であってしかるべきギリシャ一高貴な姫が、自分に咎のないことで、なぜこんなに素直に謝るのか。 自分の心情がわからない氷河は、それ以上に瞬という人間の心が理解できなかった。 氷河は、瞬にはもっと不遜に振舞ってほしかったのである。 そうでなければ、瞬を憎み軽蔑することができない。 そうしてもらえなければ、奴隷の国の王は 瞬を無理に奴隷の妻にしてしまったことに罪悪感を覚えないわけにはいかなくなってしまうではないか。 瞬自身は、だが、氷河を憎みたいとか蔑みたいとか、そういうことを考えてはいないようだった。 気を取り直したように 「僕は、あなたの妻になることはできません。けれど、氷河のよい友人になりたい」 「友人? 奴隷のか? 俺は高貴な姫君と高尚な会話を楽しめるような頭を持ってはいないぞ」 (ああ、また……!) 氷河は、そういう物言いをしてしまう自分に、内心で舌打ちをした。 こんな僻み丸出しの言葉は、自分から瞬に奴隷を蔑むことを仕向けているようなものである。 幸い 瞬は、氷河の卑屈を卑屈と捉えることはせず、あろうことか謙遜と受け取ったようだった。 「奴隷のいない国の実現という氷河の理想は、とても高邁なものだと思います。しかも、氷河はそれをただの理想論で済ませるつもりではいない。氷河は、自分が成し遂げようとしていることの崇高をわかっているの?」 「俺はただ、俺と同じ屈辱や苦痛を味わう人間を生みたくないだけだ。崇高も高邁もない」 瞬に蔑まれるのは嫌だが、過剰な評価を受けるのも不本意である。 ぶっきらぼうに氷河がそう言うと、瞬はまるで心の内から自然に喜びが湧き起こってきたように――ひどく嬉しそうな微笑を浮かべた。 「氷河は強いだけじゃなく、とても優しい」 「優しい……だと?」 そんなことは、自由民はおろか仲間である奴隷にも言われたことがない。 氷河は瞳を見開いて、彼の高貴な妻をまじまじと見おろした。 やがて怒らせていた肩から力が抜け、同時に、氷河の心からはすっかり毒気が抜けてしまったのである。 「おまえは本当に変なお姫様だな」 「僕は……愚かな人間です。氷河のように高潔な理想や人生の目的を持てずにこれまで生きてきて――僕は神殿の中で、ただ清らかでいることだけを望まれてきた……」 「高貴なお姫様という商売にも苦労がないわけではないということか」 奴隷には奴隷の苦しみがあるように、高貴な姫君には高貴な姫君なりの辛苦があるらしい。 “人間”も奴隷同様 心を持って生きている存在なのだから、それは不思議なことでも何でもない。 その事実を認められないほど、氷河の心は頑なではなかった。 それにしても変なことを言う姫君である。 瞬は、氷河が見知っているギリシャ人――人間――とは、どこかが――というより、すべてが――違っていた。 この瞬に意地を張り続けても、瞬はその素直さで 奴隷の国の王をただの正直な男にしてしまう。 そうと悟った氷河は、だから、瞬に意地を張ることをやめてしまったのである。 神の前で婚姻の誓いを誓った夫婦とはいえ、自分たちが知り合ったばかりの者同士であることは事実なのだから――。 氷河は、瞬の上に 勝利者としての力を振るうことを断念し、瞬が言うように、まず友人として互いを知り合うところから始めてみようと、肩から力を抜いて考えたのだった。 その決意を 実に馬鹿げたことだと思いはしたが――その夜以降、氷河は、友人として、毎夜瞬の許を訪ねることを始めた。 そして、少しずつ二人は打ち解けていったのである。 瞬は、奴隷として“人間”に使われていた頃の氷河の話を聞き、氷河の理想に共感してくれた。 その上で、氷河の理想をどうすれば実現できるのかを真面目に考えてくれた。 氷河とは視点の違う瞬の考察にはなかなかに鋭いものがあり、実際 瞬が助言と意識せずに発する助言は、氷河の政策決定に大いに役立ったのである。 生まれながらに“人間”たちの頂点に立っていた瞬は、むしろそのために他人を見下す心を持っていないようだった。 瞬の意見には偏りがなく――卑屈も傲慢もなく――それ故、氷河にも傾聴に値するものだったのである。 相手は、ギリシャ人として最高の地位にいる存在。 だが氷河は、瞬と向かい合っていると、自分がその瞬と対等な存在のような気がしてくるのだった。 おそらくは、瞬自身がそう思っているから。 二人は、確かによい友人になりつつあった――なっていたのかもしれない。 瞬の部屋を出る時、氷河が必ず、 「まだ俺に抱かれる気にはならないか」 と尋ねることさえしなければ、二人は確かによい友人――対等な友人になってしまっていただろう。 |