- II -






『まだ俺に抱かれる気にはならないか』
瞬の寝室を出る時には必ず、氷河は瞬にそう尋ねた。

瞬は氷河の問いかけに、最初のうちはきっぱりと『否』の答えを返してきていた。
日を追うごとに、決然としていた瞬の表情は困惑の色を濃くすることになった。
答えを口ごもるようになり、ついには瞬は悲しげに首を横に振るだけになった。
だから 氷河は期待したのである。
瞬の心が揺れていることは疑いようのない事実に思えたから。

瞬を本当に自分の妻にしたいと思う。
瞬も奴隷の王を嫌っているようには見えなかった。
瞬には不思議なほど高慢さがなかったし、奴隷のことも人間のことも分け隔てなく語る。
ある夜など、氷河の退室時のいつもの問いかけに涙を浮かべて俯きさえした。
神殿の奥深いところで清らかであることだけを望まれていた瞬は、人を恋した経験さえなく、彼女の夫の他に心惹かれている男もいないようだった。

だから、ある夜、氷河は意を決して瞬に尋ねてみたのである。
瞬が 奴隷の王の許に嫁ぐ際に突きつけてきた条件――それは瞬自身が同意したものだったのかどうかを。
「他の女の産んだ子でも、おまえは、対外的にその子供をおまえの実子として認めると言ったな。クレタ王家の血を引く子供と認めると」

氷河は探りを入れただけのつもりだったのだが、瞬は、その言葉に尋常でない衝撃を受けたようだった。
唇を震わせて、一度も身体を重ねたことのない夫に尋ね返してくる。
「だ……誰かが氷河の子供を身籠ったの」

『そうだ』と答えたら――それが嘘でも冗談でも――瞬は泣き出してしまいそうだった。
氷河にはそう見えた。
もちろん氷河は、すぐに、そんな事態が起こりえないことを瞬に知らせたのである。
触れることを禁じられていた瞬の頬に、その手を伸ばして。
「おまえと婚姻の誓いを立ててから、俺は他の女には指一本触れていない。俺はおまえに俺の子を産んでほしい。おまえでなければ駄目だ」
「氷河……」

瞬は、氷河の手を振り払わなかった。
にも関わらず、震える声で、
「それはできません」
と答えてきた。
これほど言葉と態度の乖離した拒絶もない。
瞬を怯えさせることのないように注意深く、全身にたぎってくる情熱を無理に抑えて、氷河は囁くように彼の心を瞬に知らせたのである。
「俺はおまえを愛しているんだ」

「氷河……っ!」
だが、瞬の答えはあくまで拒絶のそれだった。
瞬の声には絶望の響きが含まれていた。
否、それは絶望だけでできていた。
そして、瞬の悲痛な叫びは、氷河にも絶望を運んできたのである。
ギリシャ人ヘレネス奴隷バルバロイも同じ人間だと言葉では語りながら、瞬の感情や感性は やはり奴隷を厭うていたのかと。
そうとでも考えなければ、氷河には瞬の拒絶の訳が理解できなかったのである。
触れ合うことのない友人になることならができるのに、人間と奴隷は 互いに触れ合う恋人や夫婦になることはできないと、瞬はそう言っているのだ。

「おまえはそんなに俺が嫌いなのか。触れられるのも嫌なほど……。それは俺が奴隷だからか」
「ち……違います!」
「俺はおまえに触れたい。おまえを抱きたい。俺は――おまえに愛されたい」
「それは無理なの。どうしてわかってくれないの!」
「わかるかっ」

どうすれば“わかる”ことができるというのか。
神の前で婚姻の誓いを為し、これほど側にいて、同じ言葉で一つの理想を語り合うことさえできた二人が結ばれてはならない理由が、いったいどこにあるというのだろう。
氷河には瞬の拒絶の訳が、どうしてもわからなかった。
「ギリシャ人たちは奴隷は牛馬と同じだと思っているらしいがな、奴隷でも恋をする。高貴な王家の姫君はそんなことも認めてくれないのか! おまえは、奴隷の分際で高貴な姫君に心を奪われた俺を嘲笑うのかっ!」

「あ……あ……!」
氷河の告白が、瞬には 命を削り取られるほどの苦痛だったらしい。
瞬は、苦しげに呻き、瞳を涙で潤ませて我が身を自分の腕で抱きしめた。
それ以上立っていることができなかったのか、石の床に力なく崩れ落ちそうになる。
氷河は、ほとんど反射的に、崩れ落ちかけた瞬の細い身体を抱きとめた。
瞬の身体は、まるで氷の室に放り込まれた人間のそれのように小刻みに震えていた。

「瞬、おまえはそんなに――」
奴隷の妻になることを恐れ厭うているのか――。
絶望が、氷河にその言葉を言わせることをしなかった。
氷河の右の腕に抱きとめられている瞬が、大きくかぶりを横に振る。
そうして瞬は、血を吐くような悲痛さで、自分が神の許した夫を拒まなければならない理由を氷河に知らせてきたのだった。
「ぼ……僕は姫なんかじゃない。少女じゃなく――男子なんです……!」
「なに?」
「ご……ごめんなさいっ!」

――奴隷だけではなく すべての人間に かしずかれることが当然の身分に生まれた姫君が、卑しい奴隷の支配する奴隷だけの国に力づくで連れてこられたというのに、毅然とした態度を崩すことなく蛮人の王と対等に渡り合ってみせる。
氷河は瞬を、物腰や表情は優しいが気丈な姫だと思っていた。
その瞬が、瞳から大粒の涙を次から次にあふれさせて、身悶えるように泣いている。
それは不思議に女々しい様には見えなかったが、しかし、猛々しい態度だとは なおさら言い難い。
実は男子なのだと言われても、氷河には にわかに瞬の言葉を信じることができなかった。

だが、嘘とも思えない。
そもそもそんな嘘をついたところで、瞬と瞬の故国は何の益も得ない。
それは奴隷の王の怒りを買いかねないこと――瞬と瞬の故国を窮地に陥れかねないこと――だった。
もっとも、氷河は怒りよりも驚きの方が勝って、瞬を責めることはできなかったのだが。

否、氷河は怒りどころか驚きすら感じていなかった。
心から愛しく思っている者が目の前で身も世もあらず泣いているのである。
氷河の胸中には憐憫の思いしか湧いてこなかった。
泣かないでほしいと願う心しか。






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