「……クレタ王家は、常に王家の血を引く娘を万神殿に仕えさせておかなければならないんです。それがクレタ王家をクレタを統治する王家たらしめるための唯一の義務で、王家がその義務を果たしている限り、クレタは神の加護を約束されていると民は信じている。神殿に王家の血を引く娘がいる限り、クレタは神に守られているのだと」
氷河が怒りを露わにせず――怒っていないのだから当然のことだが――瞬を椅子に掛けさせたことで、瞬の感情の昂ぶりは少し落ち着いてきたらしい。
瞬はぽつぽつと、王女ならぬ王子がクレタの巫女姫にならざるを得なかった事情を語り始めた。

「でも、王家の血を引く女性がいなくなって……。僕と僕の兄、僕たちの父の兄弟も男子ばかり、僕の従兄弟たちもみんな男子。そして、僕が生まれた時、僕の前の巫女姫は50を過ぎていた。もし彼女が死んでしまったら、クレタ王家には神に捧げる姫がいなくなってしまう。巫女姫を出すことで王家たり得ていたクレタ王家は、そんな事態に見舞われてしまったんです。だから僕の両親は、万一のことを考えて、僕が生まれた時、僕を姫と偽った」
そうして瞬が10歳になった秋、クレタの最後の巫女姫が亡くなった――のだそうだった。
その10年の間に、王家には女子が生まれていなかった。
瞬がクレタ王家の聖なる義務の後継者となったのである。

「このことがクレタの民に知れたら、民は王家に騙されていたことで王家に不信を抱くでしょう。いえ、それだけならいい。クレタは神の加護を得ているから滅びることはないと信じ切っていた民が不安を覚え恐慌を起こさないとも限らない。それは民のための偽りだったのに、その偽りのせいで――僕のせいで、クレタは崩壊しかねない――」

氷河から、クレタの巫女姫を奴隷の王の妻として差し出すことを求められた時、瞬の秘密を知る者たちは、もしか・・・したら・・・本当に・・・この世界には神がいて、神の威を借っているクレタ王家に罰を与えようとしているのではないかと戦慄したのだそうだった。
彼等にとって“クレタの巫女姫”という風習は、神への信仰や畏怖から為される行為ではなく、国民をつつがなく治めるための政治的方策にすぎなかった――彼等は神の存在を心から信じてはいなかったのである。

瞬の告白を聞いて、氷河はあっけにとられることになった。
もちろん、異国からギリシャに強制的に移住させられた者たちの子である氷河はギリシャの神など信じてはいない。
しかし、神の加護を国の礎としていることで知られるクレタの王族が、そこまで地上的な――現実的かつ政治的な者たちだったとは。
強大な軍隊を持たず、その文化伝統以外に誇れるものとてないクレタ王国が、その非力にも関わらず滅びないのも道理である。
クレタは高次の政治力で存続している、極めて先進的な者たちに治められている国だったのだ。

とはいえ、氷河にはそれは尊敬し見習いたいことでこそあれ、軽蔑するようなことではなかった。
彼にはそんなことよりも――
「では、おまえは本当に男子……男なのか?」
氷河には何よりその事実――事実なのだろう――が信じられなかったのである。
瞬は、他の“女”と呼ばれる者たちよりずっと綺麗で――女などと比較することが馬鹿げているように思えるほど清楚な風情をしていた。
瞬は、氷河が知る限り最も美しい人間であり、その姿を女性的だとは思わないが、決して男子にも見えない様子をしていたのである。

完全には信じられない気持ちで、氷河がその手を伸ばし、瞬の頬に、そして唇に触れる。
清潔で なめらかな肌、やわらかい唇――それらは、とても男の身に備わったものとは思えないものだった。

瞬は、今度は氷河の手から逃れようとはしなかった。
男子と知られれば、そうい・・・うこと・・・にはならない――なりようもない――と、瞬は考えたのだろう。
「だからおまえは俺から逃げていたのか? 俺が奴隷だから、その……生理的に嫌いだとかそういうのではなく……?」
だが、氷河は、瞬の考えとは全く違う期待に囚われ始めていたのである。
瞬が、もしかしたら彼女の――彼の?――夫を嫌っているのではないかもしれないという期待に。

氷河の期待は裏切られなかった。
瞬は、氷河が告げた仮定文を ためらいなく否定した。
「そんなことあるはずがありません。氷河は優しいし、綺麗だし、強くて素晴らしい理想を持っていて、努力家で――」
そこまで立派なものでもないが――と言いかけて、氷河はその言葉を慌てて喉の奥に押しやった。
今はそんなことよりも大切なことが――何にも優先させて確かめたいことが、氷河にはあったのだ。

「俺はおまえに嫌われていたのではなかったのか?」
「嫌う理由がどこにあるというの」
「そんなものはいくらでも――」
口にしかけた言葉を、再び呑み込む。
なにもわざわざ瞬がその夫を嫌うための理由を提供してやることはない。
『嫌う理由などない』――その言葉だけで、氷河は十分だったのである。
瞬が奴隷の王を嫌っていないのなら、氷河はそれだけで希望を抱くことができた。






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