もちろん氷河は、高貴な王家に生まれながら奴隷を蔑む気持ちを持たない瞬の心に惹かれたのである。
そうなのだと、彼は懸命に自身に言い聞かせた。
瞬のこの稀有な身体に惑ったわけではないと。

瞬と身体を交える前から氷河は瞬を欲していたのだから、それは改めて自覚するまでもない確かな事実だったのだが、氷河はその確かな事実にさえ確信を失いかけていた。
それほどに、瞬との交合は、下世話な言い方をすれば良すぎた・・・・のである。
こんなことがあり得るのかと懐疑せずにはいられないほど、本当に人間と奴隷は同じ生き物なのかと疑わずにはいられないほど、瞬の身体は特殊だった。
何もかも忘れて昼も夜も その中に沈み込んでいたいと願わずにいられないほど刺激的で、魅惑的で、そして危険だった。
重責を負っている人間がこんな恋人を持ってしまったら、彼は彼に課せられたどんな義務をも果たすことができなくなるに違いなかった。

自分は瞬を遠ざけておかなければならない――と、氷河は考え始めていたかもしれない。
難しい顔をして寝台に横になっていた氷河に、瞬が泣きそうな顔をして、
「僕は……氷河を失望させてしまったの?」
と尋ねてこなかったなら。

「……おまえは何を言っているんだ?」
全く逆のことで思い煩っていた氷河は、瞬のおどおどした物言いに虚を衝かれた。
「ぼ……僕に触れることが、氷河には不愉快だったんでしょう? だから氷河は、そんなふうに苦虫を噛み潰したような顔をして、僕を見ようともしないんでしょう?」
「……」
氷河が瞬を見ようとしていなかったのは、全く別のことを心配していたからだった。
瞬の情熱に潤んだ瞳を見、その肌に触れてしまったら、またあの欲望が生まれてくる――と、氷河はそれを懸念していたのだ。
だが、今、氷河の横で悲しげに奴隷の王を見詰めている瞬の瞳は、氷河が最初に瞬に恋した時と同じように澄みきっていて、氷河が懸念していた欲望は生まれてこなかった。
今の瞬の瞳は、氷河の胸に、ただ『愛しい』という気持ちしか運んでこない。

瞬があの尋常でなく激しい交合を、ほぼ意識なく為したことは明白だった。
瞬は以前と変わらず 高貴で清らかな――汚れを知らない姫君で、そして、初めて身体を交えた相手が不機嫌な面持ちをしていることに――そう見えることに――怯えきっている。

氷河は心を安んじたのである。
奴隷の王が恋した、優しく偏見のない聡明な姫が、奴隷と身体を交えたことで消えてしまったわけではなかったことを知って。
瞬の髪に手を伸ばし触れ、その手を瞬の肩に移動させ、氷河はそのまま瞬の身体を抱き寄せた。
瞬が肉食の獣に食われることを覚悟した小動物のように、氷河の胸の中で身体を縮こまらせた。

「失望などするわけがない。ただちょっと驚いただけだ。俺はおまえに あんなにひどいことを強いたのに、おまえがそんな男に何度も『僕のものだ』と言ってくれたから」
「ぼ……僕、そんなこと言ったの……」
氷河の胸の中で、瞬がますます身体を小さくする。
瞬は、交合の最中の自分の言動をほとんど憶えていない――氷河を身の内に受け入れたあとの自身の変化に全く気付いていないようだった。
氷河の愛撫に我を忘れさえしなければ、瞬は やはり高貴で清らかな姫君であるらしい。
それならば、氷河にとって瞬は やはり気高い“人間”であり、得難い恋人でもあった。
これほど理想的な恋人は、他にはまず存在しないだろう。

「クレタの高貴な姫君は月のように冷たく高慢な姫君だとばかり思っていたのに、あまりの可愛らしさに目眩いがしたぞ。――嬉しかった」
少しばかり余裕を取り戻した氷河が、瞬の耳許に そう告げると、瞬はその頬を真っ赤に染め、氷河の胸の中で俯いた。
「僕……だって、自分があんなふうな気持ちになるなんて思ってもいなかったんだもの。氷河になら、あのまま身体を引き裂かれて殺されてしまってもいいと思った――」
「俺はそんなにひどくはしなか――」
しなかったと言い切る自信は、氷河にはなかった。
瞬の喜びを含んだ喘ぎ声と健気な身体、瞬に受け入れてもらえる幸福に酔っていた自分自身を、氷河は憶えていた。
そのあとの激しすぎる瞬の情熱に面食らい、驚愕したことも事実ではあったが。

「すまん。おまえに触れられることが嬉しくて、おまえが俺にそうすることを許してくれるのが嬉しくて、つい加減を忘れた」
「僕、いつのまにか自分で自分がわからなくなって――あんなふうになってしまった僕に、氷河はがっかりしてないの?」
「おまえは俺にがっかりしたのか」
「そんなことあるはずが――!」
向きになって否定しようとした言葉を、瞬が途切らせる。
はっと我にかえると、恥ずかしそうに瞼を伏せ、少し横を向いて、瞬は、
「そんなことを言わせないでください」
と、氷河を責めてきた。






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