また夢を見た。 ――と漱石ふうに言ったところで、俺の見る夢は到底 人様には語れない夢だ。 頭を冷やさないと まともに眠れそうにないと判断した俺が城戸邸の庭に出たのは、夜中の2時。 目的が 頭を冷やすことなら、外に出るより屋内にいた方が有効だったと、俺はすぐに悟ることになったが。 暦の上では既に秋。 だが、この時季は深夜でもまだ、空調完備の邸内の方がずっと涼しい。 それでも俺がすぐに邸内に戻らなかったのは、夏が終わりかけた夜の空に散らばる星たちの光が 不吉なほどに美しく冴えていて、その冷たい光が 俺から地上的な欲望を取り除いてくれるかもしれないと期待したからだった。 それらの星は、数だけならシベリアで見ることのできる星の数の10分の1にも足りない。 星と星の間の距離が離れているせいか、シベリアの夜空の星たちよりも孤独な光を放っているように感じられる。 それにしても、日本の空にある星がこれほど冷たいものに見えることがあろうとは。 少なくとも、今 俺の頭上にある星空は、俺が日本で見慣れた星空とは様相が違っていた。 いつもと違う星空。 俺は、俺の知らない星座が輝く異世界にでも迷い込んだような違和感を覚えていた。 こんな星は、死者の国の夜空にこそふさわしい――。 そんなことを考え始めている自分に気付いた俺は、馬鹿げた考えを振り払い、“日常”を求めて 視線を地上に戻した。 そこに瞬がいた。 俺を眠らせてくれない夢の主人公。 俺は浅ましい夢から逃れるために自室を出たはずだったのに、実はそれもまた夢の中での行動だったのだろうか? 俺は自分の覚醒を疑うことになった。 軽く舌を噛んでみる。 俺がいるのは夢の世界ではなかった。 これが俺の見ている夢ではないのだとしたら、なぜこんなところに瞬がいるんだろう? まさか瞬が俺のように浅ましい夢を見て、頭を冷やすために外に出てくるわけもない。 瞬は虚空の ある一点を見詰めている。 その方向に瞬の気を引くほど目立った星があったろうかと疑いながら、俺は瞬の視線の先を追った。 だが、そこには星はなく――そこにあったのは不自然なほどの闇――漆黒の闇があるだけだった。 いったい瞬は何をそんなに凝視しているんだ? 「しゅ……」 訝りながら、俺は瞬の名を呼ぼうとした。 この世の中には逆説療法というものがある。 病の原因を敢えて身体に与えることで、その病の発症や進展を妨げようとするやり方だ。 瞬のあの澄んで綺麗な瞳に触れたなら、俺の不治の病を一時的にでも抑え込むことができるんじゃないかと、俺は考えたんだ。 ――が。 瞬は一人ではなかった。 瞬の名を呼びかけた俺の声を、別の声が打ち消してしまう。 『瞬。やがて時が満ちる。そなたが余のものになるのはまもなくだ』 俺の知らない男の声。 誰だ。 いったい瞬は、こんな時刻に、まるで人目を避けるように誰と会っている――? 俺は、瞬の視線の先を再び辿った。 だが、そこには人の姿らしきものは見えない。 人の姿どころか――そこには何もなかった。 漆黒の夜の闇以外には。 目を凝らした俺は、だが、まもなく気付いた。 闇の中で――瞬が視線を投じている空間だけが、妙に歪んでいる。 漆黒の闇の中で、漆黒の影が陽炎のようにゆらゆらと揺らめいているんだ。 揺らぎの正体を見極めようとした俺の目の前で、その影が瞬を包み込もうとする。 俺はそれ以上 傍観者でいることはできなかった。 「何者だ! 瞬から離れろ!」 俺は、瞬の身を庇うように、不気味な影と瞬の間に飛び込んでいった。 瞬は俺の声を聞いても、俺の姿を見ても、微動だにしない。 いや、瞬には、俺の声が聞こえていないようだった。 俺の姿も見えていない。 目は開いているのに、瞳に輝きがない。 目は確かに開いているのに、瞬の目は俺の姿を捉えていなかった。 瞬は意識がないようだった。 そんな異常事態だというのに、その時 俺はなぜか安堵に似た思いに支配された。 瞬は自分の意思でここにいるのではない――俺以外の誰かといることを瞬の心が望んだわけではない。 そう信じることができるようになったからだったろう、俺が安堵を覚えたのは。 そんなことに安心している場合ではないというのに。 影が俺の方を振り向いた――ような気がした。 実際には、形を持たない影が空中で揺らめいただけだったが。 影は、影の分際で声を持っていた。 『アテナの聖闘士か。余と瞬の逢瀬の邪魔だてをしないでほしいものだ。興が削がれる』 「何が逢瀬だ! 瞬は……瞬は意識がないじゃないか!」 『だが、瞬は余の呼びかけに応えて、ここにきたのだ』 「そんなことがあるか!」 あり得ないことを、影が言い張る。 瞬が自分の意思で この夜の庭に出てきたというのなら、なぜ瞬の瞳は輝いていないんだ。 俺の知っている瞬の瞳はいつも――つらい思いに耐えている時も、悲しみに打ち沈んでいる時にも、生気に輝いていた。 それこそが瞬だ。 「貴様は何者だ!」 「冥界の王ハーデス」 「冥界の王……だと?」 自称冥界の王とやらが俺を見据え(俺はそう感じた)、冷ややかな口調で、嫌なことを言う。 「浅ましく醜い欲を抱えているな。アテナの聖闘士が皆 瞬のように清らかな者たちではないということか。その欲で余の瞬を汚すでないぞ」 「な……」 たかが影の言うことだ。 それが瞬に関することなら、俺は信じないでいることができたし、影が何を言おうと一笑に付すことができた。 だが、その言が俺自身のこと――影が事実を語っていると嫌でもわかってしまうこととなると、俺には否定のしようがない。 こいつはいったい何者だ? 本当に死者の国の王――神なのか? だが、死の国に属する者が、なぜ、あふれんばかりの生気でできている瞬に関わろうとしているんだ。 「瞬は清らかなまま、余のものになる。身も心も」 冥界の王を称するものが、ふざけたことを言い募る。 「そうはさせるか」 俺は、俺の前にぼんやりと浮かんでいる影に攻撃を仕掛けようとした。 冥界の王でも地上の王でも、俺以外に瞬への執心を示す者がいるということが、既に俺には看過できないことだった。 そんな俺を押しとどめたのは、あろうことか瞬――俺が守ろうとしている瞬その人だった。 「やめて、氷河。 瞬の声、瞬の唇――が、得体の知れない影を庇う。 俺は一瞬 何が起こったのかがわからなかった。 なぜ瞬がそんなことを言い出したのかということ、その理由に、俺はまもなく気付いた――気付かないわけにはいかなかった。 あの闇が瞬の中に入り込み、瞬の身体を操っている。 俺はぞっとした。 俺の瞬が他人に身体を乗っ取られていること自体にも、そんなことのできる者とその力にも。 「やめろというのはこっちのセリフだ! 瞬から離れろ!」 なぜ俺が瞬に向かって、こんな怒声を投げつけなければならないんだ。 苛立つ俺に、瞬ではない瞬が、瞬の声と瞬の口調で答えてくる。 「それは無理だよ。僕は運命によって冥界の王に選ばれたの。ハーデスにこの身が捧げられることは最初から決まっていて、誰にもそれを止めることはできない。もしそんなことをしたら、ハーデスは、僕という人間の力の限界に妨げられることなく神としての力をすべて解放して、より容易に人間が生きている世界を壊してしまう。僕という生け贄は、人間の世界を守るために必要なものなんだ」 瞬にそんな言葉を言わせているのは、本当に冥界の王ハーデスか? 俺にはそれは、瞬自身の死を覚悟した言葉としか聞こえなかった。 それはとても瞬らしい決意だ。 だが、だとしても――。 「なぜ おまえなんだ! おまえばかり、なぜいつも犠牲になる!」 なぜ、瞬――俺の瞬なんだ。 「人間を一人 犠牲として手に入れれば気が済むのか? なら瞬でなく、代わりに俺を殺せ。俺の命で満足しろ!」 「余は、瞬の命を奪おうなどとは考えておらん。だいいち、そなたの命などに どれほどの価値があるというのだ。そなたの内にある汚らわしい欲望。神である余に、そなたの汚らわしさがわからぬとでも――いや」 瞬が、俺の知らない男の口調で、瞬の知らないおれの醜さを語る。 瞬はその顔に瞬らしくない冷笑を浮かべ――ふいに、俺の提案に乗る素振りを示してきた。 確かに 「それも面白いかもしれぬな。汚れた人間の愛と犠牲的精神がどこまでもつか試してみるのも一興」 この冥界の王とやらは、おそらく、意識のある瞬を支配することはできないんだ――少なくとも、今はまだ。 だから こうして意識のない瞬を操って、こんなところに呼び出し、瞬の心を弱め篭絡しようとしている。 ハーデスが俺の提案を受け入れたのは、俺という取るに足りない玩具で、その時が満ちるまでの退屈しのぎをしようと考えたからだったのかもしれない。 それでもいい。 冥界の王の退屈しのぎが、瞬とその仲間にとっての時間稼ぎになるのなら。 俺の身に何かあれば、沙織さんが何らかの行動を起こしてくれるだろう。 冥界の王という敵の存在に気付き、瞬を守るための対応策を講じてくれるに違いない。 それで瞬が冥界の王に利用されずに済むのなら、俺は喜んで この命をハーデスに与えよう。 『よかろう。では、瞬の代わりに、その身体を余に差し出せ』 楽しげに冷たく そう言って、瞬の顔をした冥界の王は 俺の額にその指を伸ばしてきた。 |