愛は剣より

- I -







朝早く、予定にない訪問者を迎えた俺は、かなり機嫌が悪かった。
明日は、王宮で御前試合がある。
剣で戦う術の他には爵位も財産も持たない一介の平民の俺には、それは二度と巡ってこないだろう千載一遇の好機だ。
王に直接会うことなど、この機会を逃せば一生ないかもしれない。
生涯にただ一度だけの特別な日。――の前日なんだ、俺にとって今日という日は。
俺は昂ぶる気持ちを落ち着つかせるために、安息日以外には休んだことのない剣術サロンも今日は休業ということにしていたのに。

本来なら約束もない客など追い返すところだったのだが、俺がベッドを出て身支度をすることになったのは、そのマナーを無視した客が執事に告げた身分が無視できないものだったからだ。
その客は、明日 国王の前で俺と剣を交えることになっている公爵の実弟と名乗った――らしい。


ウルジェイは、欧州の南端にかろうじて引っかかっているような小さな国だ。
周辺には、革命を起こしている国もあれば、その反動で王権の強化にいそしんでいる国もあり、欧州自体がひどく慌しく変化しているというのに、この国だけは、時計が100年ほど遅れてでもいるかのように平和で のどか。
中世の町並を残す小さな国を愛おしんで、嵐がこの国の上だけはよけて通っているような、そんな国だ。

その平和な国の王が突然『国いちばんの剣士を決める』と言い出したのは、1ヶ月前のこと。
なぜ急に国王がそんなことを思いついたのかを、俺は知らない――知りようもない。
もしかしたら、王は、ここ数年間 争乱らしい争乱のない日々に退屈していたのかもしれないし、あるいは自国の民に気晴らしになるような祭りを提供しようと考えたのかもしれない。
そのどちらであっても、他に理由があるにしても、そんなことは俺にはどうでもいいことだった。

祭りの開催に当たって、王は、全国民に対して『身分の上下、貴賎は問わない。腕に覚えのある者は誰にでも“挑戦権”を与える』と公布した。
『全国民に対して』といっても、その中に貴族は含まれない。
国王が企画した祭りは、まず平民たちを競わせる勝ち残り式試合方法での予選会を開催し、その優勝者を、現在 国いちばんの使い手と言われている騎士(当然 貴族だ)と戦わせるというものだった。
つまり、貴族側の代表者は最初から決まっていたんだ。

その男への挑戦権を得るために、功名心に逸った200人を超える剣士たちが都に押し寄せ相争った。
そうして、言ってみれば平民の間で行なわれた予選会に勝ち残り、現在“国いちばんの使い手”と言われている騎士への挑戦権を手に入れたのが、この俺というわけだ。
俺の挑戦を受けるのが、俺を叩き起こした客の兄ということになる。

俺はもともと この国の生まれじゃない。
俺が生まれたのは、ずっと北の国だ。
5年前に最後の血縁だった祖母が亡くなったのを機に故国を出、各国を巡り、この国に落ち着いたのが2年前。
今は都の片隅に ささやかな剣術サロンを開いて生計を立てている。
俺のサロンは、まあそれなりに繁盛している方だと思う。

ここは戦のない平和な国だ。
以前は内乱の絶えない国だったらしいが、少なくとも俺がこの国に落ち着いてからは、平和の風しか吹いていない。
そのせいで、この国の若者たちは血の気を持て余しているらしく、詰まらないことで決闘ばかりしている。
一種の流行り病なんじゃないかと思うほどだ。
当然、貴族平民を問わず剣を扱う術と決闘の作法を心得ておく必要が出てくるわけで、おかげで俺のサロンも何とか経営が成り立っている。
ここで“国いちばんの剣の使い手”という王のお墨付きを手に入れることができれば、俺の商売は更に上向きになるだろう。
少なくとも悪友共に『女相手のサロンを開いていた方がもっと実入りがいいだろうに』とからかわれずに済むようになるに違いない。
国王や貴族たちには単なる暇潰しの催しにすぎなくても、それは俺には生活のかかった重要なイベントだった。

そのイベントのもう一人の主役――の弟だという客人は、玄関に出た執事(我が家の唯一の使用人だ)に、
『明日の御前試合に出る騎士殿にお願いがある』
と言ったらしい。

人様に剣の扱い方を教えることを飯の種にしているわけだから、それなりに強いつもりではいるが、無論俺は騎士なんかじゃない。
それは、貴族にだけ許された称号だ。
俺には主君はいない。
へたな持ち上げなのか 皮肉なのかはわからなかったが、前者ならそれは不首尾に終わったことになる。
客の告げた“用件”は俺の機嫌を大いに損ねた。

それでも健気な俺は、剣の練習場と居住区のちょうど中間にある客間に向かった。
俺の住まいは練習場に隣接している。
居住区は練習場のおまけのような建物で、瀟洒な貴族の館で多くの使用人にかしずかれて暮らしている人間には物置小屋としか思えないような代物だろう。
そんなふうに あまり楽しくないことを考えながら、我が家の素朴な客間に入って行くと、問題の客人は椅子に掛けず その場に立って、俺の登場を待っていた。
家の主人に敬意を表して――というより、クッションを置いただけの木の椅子になど腰をおろしたくないだけだったのかもしれない。
船乗りが持ち歩くような木製の木箱の上に置かれているクッションはビロード貼りなどではなく飾り気のない簡素な麻でできたものだったし、貴族様がそれを椅子だと認識できなかった可能性もあるな。

「あなたが、氷河さんですか」
「氷河でいい。俺に『お願い』とは何だ」
寝起きの不機嫌を隠さずに、俺はぶっきらぼうな口調で客人に尋ね返した。
ある意味 俺は客人の敵なんだから、やたらと愛想を振りまいてやる必要もないだろう。
甘い顔を見せて、貴族の『お願い』を腰を低くして聞き入れる男とみなされるのも、この場では得策とは思えない。

「では、僕も瞬で結構です」
名を名乗られてしまっては仕方がない。
俺は、腰をおろすものと認識してもらえなかった(のかもしれない)哀れな椅子に向けていた視線を、その客人の方に いかにも面倒くさそうな態度で巡らせた。
その視線が、訪問のマナーを知らない客人の上で止まる。
俺は、その時、間抜け面をさらしていたかもしれない。
俺を間抜けな男にしてくれた原因は、まあ、言ってみればその客人の美貌だったろう。
早朝 俺を叩き起こしてくれたマナー知らずの客人は、とんでもない美形だった。

現在この国いちばんの使い手ということになっているフォワ公爵は、この国いちばんの金持ちでもある。
その実弟なら、高価なレースのブラウスに 凝った刺繍が施された上着を着込んで、嫌味なほどきらびやかな姿をしているのだろうと思っていたんだが、客人は意外なほど飾り気のない上着でその高貴な身体を包んでいた。
お忍びの訪問だからなのか、そういう飾り気のない衣装の方が自分の容姿を引き立たせることを知っているからなのか、その方が動きやすいという常識を有しているからなのか、そのあたりは何とも判断のしようがなかったが、ともかく俺は、客人のその姿に、けばけばしい毒花が咲き乱れているのだろうと考えて足を踏み入れた植物園で、白い百合の花に出合ったような驚きを覚えたんだ。

歳は10代半ば。
とにかく美しい。
その姿は、可憐とでも言えばいいんだろうか。
とても少年とは思えない。
かといって少女に見えるわけでもない。
どこか幼さを感じさせる大きな澄んだ瞳と、歳に不釣合いな落ち着きと、少々細すぎるきらいはあるが人間としては理想的な比率をもって構成されている肢体。
やましい気持ちからじゃなく、俺は、この客人の裸体を見てみたいと、ごく自然に考えた。
俺にそんな突拍子のない考えを運んでくるほど――マナー知らずの客人は、俺がこれまで一度も見たことのない種類の美貌を持った人間だった。

この俺が、人間の姿に衝撃を受けるなんて、生まれて初めての経験だ。
こんな綺麗な人間はいったいどんなことを考えて生きているんだろうと疑いながら覗き込んだ瞳が、これまた謎めいていて深い。
もしかしたら悪魔という生き物はこんな姿と瞳を持っているんじゃないだろうか――と、俺は思った。
魂が身体から離れて引き込まれていくような、そんな瞳。
俺は、客人の瞳から目を逸らせなくなった。






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