- II -






「そ……それはどういう意味ですか」
俺に尋ね返してきた瞬の声は震えていた。
瞬が俺の提案に嬉々として飛びついてくるなんて、俺も思っていたわけじゃない。
が――そんな俺も、少しは落胆した。
ともかく、これで事態は落着だ。

「おまえが その意味もわからない子供なのなら、話にならない。この件はなかったことにしよう」
そう言い捨てて、俺は剣を手にして踵を返した。
「ま……待って!」
瞬が慌てたように、俺の腕を掴んで俺をその場に引きとめる。
どうやら瞬は、平民に触れるのが嫌なわけではなく、人に触れられる・・・のが嫌なだけだったらしい。
手合わせの前に俺から身を引いたのは、俺がふいに瞬の腕を掴もうとしたから――のようだった。

「そ……それくらい、僕にだって わかります。でも、そんなことできるわけが――」
「俺が平民だからか?」
「そ……そうじゃなくて、僕は男子です」
「そして、俺がこれまでに出会った中で最も美しい人間だ。ああ、もちろん、俺の母は別だが」
これ以上はないくらい強張り青ざめていた瞬の顔が、俺のその言葉を聞いた途端、まるで憑き物が落ちたように きょとんとしたものになる。
俺はそんな変なことを言ったつもりはないが――事実を口にしただけのつもりだったんだが――俺のその言葉を聞いた瞬の表情と眼差しは、目に見えて和らいでいった。

「氷河のお母様なら、とても美しい方なんでしょうね」
「もちろんだ」
俺は事実を言っただけだ。
その事実に、瞬がやわらかく微笑する。
「羨ましい」
「何も羨ましがることはないだろう。おまえの母親も――おまえの母親なら、俺の母に勝るとも劣らない美貌の持ち主なんだろうし」
「それはどうか……。僕は、母の顔を知らないので。僕の母は、僕を産んですぐ亡くなったんです」

父が反逆者の汚名を着せられる場面を見ずに済んだのは、母にとって幸いだった――と、瞬は言った。
「あの島に行って2年後、反逆者の汚名を着せられたまま父も亡くなり、今、僕の肉親は兄だけです」
「泣き落としはきかない。兄弟がいるならいいだろう。俺は天涯孤独の身だぞ」
「お母様は?」
「俺が10歳の時に亡くなった。父はどこにいるやら」
「もしかして、氷河はお父様を探してらっしゃるんですか? それで各国を――」
「まさか!」

瞬の勘繰りを、俺は即座に否定した。
いったい瞬は何を考えているんだ。
今は俺の親のことなんかより、我が身に及ぼうとしている危険を防ぐべく動くところだろう、ここは。
「そんなことより。兄の名誉と自分の貞操、おまえはどっちが大事なんだ!」
当然 瞬は『貞操』と答えるものと、俺は思っていた。
しかし、瞬の答えはおれの期待(それは期待だった)を真っ向から打ち砕いた。
瞬は、
「わかりました。氷河と一晩を共に過ごします」
と言ってきたんだ。
俺は、一瞬 絶句した。

「じょ……冗談だろう! おまえは気でも狂ったのか!」
「冗談だったんですか」
「おまえを組み敷いてみたいとは思うが、それとこれとは話が別だ!」
俺は自信をもって断言した。
別だろう。どう考えても。
俺がそうしたいと思うことと、瞬がそれを受け入れるかどうかということは。
「氷河はそういう趣味の持ち主なんですか」
「そんな趣味は全くない。おまえが綺麗すぎて、無関心でいられないだけだ。この細腕で、あれだけ巧みに細やかに剣を操るなら、さぞかし他人のの扱いも巧みだろうと思うしな」
瞬は絶対に『俺と一晩を共に過ごす』ということの意味がわかっていない。
そうであることを期待して(なぜそんなことを期待するんだ)、俺はわざと下卑た言葉を吐き出した。
その下品なジョークを、瞬はどうやら正確に理解した――理解できてしまったらしい。

「僕を侮辱する気ですか! 僕が剣を習ったのは、そういう浅ましいことを考える者たちから我が身を守るためです!」
「……」
ああ、そういうことか。
それまで何不自由のない暮らしをしていた大貴族の子弟が、すべての権利と財産を没収され、反逆者の家族として、荒ぶり すさんだ心を持つ者たちがひしめく流刑地で生きることになったんだ。その上、この美貌。
幼い頃の瞬は、自分の人生に絶望した男たちが その憤りをぶつけるには格好の相手だったに違いない。
瞬の兄も――弟の身を守るために剣術を習得したのだとしたら、彼は実戦にも長けているだろう。
貴族の手慰みと侮るのは危険かもしれない。
歳のわりに落ち着いて、若さに似つかわしくない機転を備えているとは思っていたが、要するに瞬は綺麗なだけの苦労知らずの少年ではないということだ。

『俺と一晩を共に過ごす』という交換条件は、もちろん瞬の『お願い』を退けるための無理難題のつもりだった。
そして俺は、流刑の島に流された罪人たちほどには心もすさんでいないつもりだった。
そのつもりだったのに――。
瞬を俺のものにしたいと――俺は本気で考え始めていた。
下品な言い方をするなら、瞬に対してそういう欲望を催し始めていた。
ほんの数時間前に出会ったばかりの相手なのに――俺も瞬も。
「すまん。侮辱するつもりはなかった」
「あ……」
俺の謝罪を受け入れてくれたのか、瞬は俺の前で顔を伏せて――そして、瞬は長いこと何かを考え込んでいた。
手にしている剣を見詰め、それから、その視線をぴたりと俺の上に据えて――やがて瞬は再び口を開いた。

「氷河の寝室はどちらですか」
「瞬……」
瞬は本気なのか。
本気で兄のために その身を俺に差し出すと言っているのか?
兄のため――だとしたら、俺はそんなものを喜んで受け取るわけにはいかなかった。

とにかく今は駄目だ。
瞬が俺と寝る理由が『八百長試合の取り引きを成立させるため』では駄目だ。絶対に。
俺は意識して険しい声を作り、瞬に忠告した。
「気が早いな。御前試合が終わってからの方がいいんじゃないか。俺が約束を守るとは限らない」
「試合が終わってからでは遅いんです。僕は氷河を信じます」
どういう意味だ?
いや、どういう意味でも今では駄目だ。
今 瞬を俺のものにしてしまったら、絶対に俺の中には わだかまりが残る。

「信頼には信頼を返すのが人の道だろう。その代わり、俺が約束を果たしたら、たとえおまえが王宮の奥深くに逃げ込んでも、俺は約束を履行してもらうために追いかけていくからな」
俺が今 瞬の誘惑を退ける理由が、瞬に正しく理解できていたとは思えない。
それでも瞬はとりあえず俺の忠告に頷いてくれた。
「氷河は……貴族以上に名誉を重んじる人みたい。では、僕も氷河に信頼を返します」
そう言って切なげな印象を残し、瞬は俺の家を辞していった。






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