この男への俺の怒りは、この国に来てから、本当は少しずつやわらいできていた。
名君とも賢君とも言えないが、この男が この国の民にとって そう悪い国王ではないらしいことを知って。
人は成長し、変わるものだ。
20年前には最低下劣な男だった者が、20年後もそうだとは限らない。
俺の母を不幸にした男は、少なくとも 今、この国の民に幸福になる可能性は与えることができている。
だから、一度だけ過去の過ちを糾弾してやったら、二度とこの男には会うまいと決意して、俺は この御前試合(の予選)に臨んだんだ。

母は死んだ。
だが、この男は生きている。
生きている者が――たとえ、過去にどんな過ちを犯していたとしても――幸福を望むのは当然のこと。
この男にその権利がないというつもりはない。
母はもう死んでしまったんだから、この男がどうなっても、母がその人生を取り戻すことはない。
俺のしたいことは、母の無念をこの男に伝えることで、復讐じゃない。
俺はこの男の破滅を望んではいない。
そのつもりだったんだ、ついさっきまで。
だが、こいつは母を不幸にしただけでなく、俺から瞬を――生きている瞬までを――奪おうとしている。
こいつはどこまで俺の幸福の邪魔をすれば気が済むんだ!

「息子の惚れた相手を権力をかさに着て手籠めにしようとするような男、父とも思わん」
俺は“父”を拒否することで、せめてこの卑劣な男を傷付けたかった。
「瞬を?」
卑劣な男が、俺の吐き出した言葉を聞いて、瞳を見開く。
そして、奴は、ひどく馬鹿げたことを喚き始めた。

「それは誤解だ! 私は、ナターシャは死んだと知らされた時、生涯 女性はナターシャしか愛さないと誓ったのだ! その誓いを守ろうと思ったら、美しい少年を愛するしかないではないか!」
「……なに?」
「そういう趣味の持ち主だと思わせておけば、家臣に結婚をせっつかれることもなく、私はナターシャへの愛を貫くことができるだろう! ナターシャは私の唯一永遠の女性だ!」
「……」
その男は、その台詞を真顔で言ってのけた。
どうやら本気の本音で言っているらしかった。

俺は――俺は、まるで10代のきかん気な子供のように そんなことを言う40代の男を見て、思い切り呆けてしまったんだ。
そんな理屈があるものか?
そんな理屈――それは“誠”と言っていいものなのか?

俺は、その男の主張に呆けることしかできなかった。
その場に居合わせた俺以外の者たちも――瞬も瞬の兄も――王の必死の訴えにぽかんとしている。
この国の王でもある助平親父だけが、己れの純愛を確信しているようだった。
俺の絶句を感動のそれと思ったらしく、奴は、一人でにこにこしながら幾度も頷いて、
「そうか、そういう事情があるのならば瞬はそなたに譲ろう。やはり親子だな。趣味も似ている。洗練されたよい趣味だ」
と言った。

気楽な次男坊国王は、息子の恋人が男子でも一向に構わないらしい。
それは有難いことだったが――有難いが、だが――だが、誰か この脱力感をどうにかしてくれ。
この男の どこか普通でない誠意と自信を、誰か『間違っている』と俺に言ってくれ!

声にならない俺の絶叫に応えてくれたのは、神でも他の常識人でもなく、俺の亡き母だった。
『悪い人じゃないのよ。陽気で、一緒にいる人を明るい気持ちにしてしまう人だった。この北の国では、太陽のようにも感じられた。何より、私に氷河を与えてくれた人。この国のしきたり通りのお付き合いをしていたとしても、彼は小国とはいえ王家の一員で、貧乏貴族の娘との正式な結婚が許されていたとは思えない。私は後悔してないの』

母の言葉――たった一人で寂しく死んでいった(と、俺が思っていた)母が、生前 幾度も俺に告げた言葉。
俺はそれをずっと 俺のための――俺を卑屈にさせないため、俺に罪悪感を抱かせないための言葉だと思っていた――決めつけていた。
だが、母が本当にそう思っていたのだとしたら。
この男にはこの男なりの誠があったように、母には母なりの幸福があったのだとしたら――。
俺は勝手に母を不幸な女性と決めつけていただけだったのかもしれない。
俺こそが、北の国の道徳に縛られていたのかもしれない。
母はもしかしたら、本当は幸福だったんだろうか――?

そうだったのかもしれないと思わせるだけの屈託のない明るさを、母の愛した男は持っていた。
「ナターシャへの私の愛が実を結んだのだ。結婚などしなくても、こんな立派な跡継ぎができたではないか。これまで苦労してきたのだろう。その素直でない目付きを見ればわかる。だが、そんな生き方は今日を限りにやめるがいい。おまえは私の息子――この国の王子様なんだぞ」
あくまでも どこまでも陽性の男は、あくまでも どこまでも前向きだった。
俺が目眩いを覚えるほどに。

「王子サマなんかになってたまるか!」
明るい南の国の太陽の前で、俺は そう毒づくのが精一杯だった。






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