糞親父は、俺を王宮に引きとどめようとした。
俺のために(俺と瞬のために)王宮内に豪奢なベッドも用意しようという勢いで。
陽気な男の執拗な懇願を退けて、俺が何とか自分の家に帰ることができたのは幸いだった。
情が薄いという俺への非難は適当ではないと思う。
今の俺には、陽気な無責任親父への恨みつらみより、瞬との恋を成就させることの方が重大事だったんだ。

俺はこれまで、自分では気付いてもいなかったが、親父の助平心や瞬の兄の恋のために振りまわされていただけだった。
おかげで、自分の恋に集中することができずにいた。
これから本腰を入れて瞬の心を俺に向けるべく努めようという俺に、王位なんてものは邪魔なだけだ。
だいいち、俺は王子サマなんて柄じゃない。
父が母を忘れていなかった。それだけで十分だ。
俺はそう思うことができるようになっていた。
おそらく――いや、きっと、瞬を知ってしまったから。

恋の力は実に偉大だと思う。
物心ついた時からずっと俺の中にくすぶっていた父への憎悪と軽蔑を、すっかり“どうでもいいこと”にしてしまったんだから。
父は、心から尊敬できるような男ではなかったが、かくいう俺だって欠点だらけの人間だ。
それでも瞬に愛してほしいと思う。
人を恋する気持ちは、人を寛大にするものらしい。
相手が恋敵でない限りは。
父への恨みつらみなんか、瞬に向かう情熱の激しさに比べたら、窒素より軽いものだ。

瞬に出会うまで俺は、恋なんてものは人の判断力を狂わせるだけで、生きていることには何の役にも立たないものだと思っていた。
が、それは、人間をこれほど寛大にし、20年来の憎悪の感情さえ消し去る力を持っている。
幸福になるためにはもちろん、世の中を平和にするためにも、人は大いに恋をすべきだと、俺は考えを改めていた。

名誉がどうのこうのと詰まらない理由で決闘ばかりしているこの国の男たちも、恋をすればいいんだ。
恋は、人間から憎しみや争いを望む心を奪い、それらを無意味なものにしてしまう。
そうなったら俺の商売はあがったりだが――いや、そうなったら、世の男共は自分の恋人の名誉を守るための決闘をすればいいんだ。
もっとも、決闘での勝利なんて、恋の場面では何の意味もないものだろうが。
たとえ決闘に負けても、恋は愛されている者の勝ちだ。
愛は剣より強い。

そんなことを疑いもなく考えてしまえるほどに――父への憎しみが薄れた分、俺は浮かれていた。
なにしろ糞親父――いや、畏れ多くもこの国の国王陛下が、瞬を俺に与えると言ったんだ。
瞬に次に会えた時、瞬は俺のものになるだろうと、俺は確信していた。
いっそ“王子サマ”の身分をかさに着て、公爵家の瞬の寝室に乗り込んでいこうかとも思ったのだが、それはあまりに不粋な振舞いだと考えるだけの分別は、かろうじて俺にも残っていた。

瞬が 俺が王子サマだとわかった途端に 俺の寝室に乗り込んでくるようなことをする人間じゃないこともわかっていたから、事が成るのは翌日と考えて、俺はその夜一晩を一人で耐えたんだ。
長い夜だった。
その一夜が100年にも思えるほどに。
だが俺はその100年に耐え抜き――翌日は朝早く起床して、瞬の訪問を待った。
初めて瞬に会った時、その早朝の訪問に不機嫌になったことも忘れて、瞬がなかなかやってこないことに苛立ちながら。

瞬がやってきたのは午後になってからだった。
まあ、他人の家を訪問するには常識的な時刻だ。
いらいらしながら その訪問を待っていたことも忘れ、執事に案内されて客間に入ってきた瞬に、俺は飛びつかんばかりの勢いで――いや、実際に俺は瞬に飛びついた。
そして、その細い身体を強く抱きしめた。
抱きしめてから、俺は、自分が瞬と――その、何だ。“そういうこと”ができるという期待に気をとられ、瞬のための気の利いた言葉一つ用意していなかった自分に気付いたんだ。
何をどう言えばいいのかわからなくて――結局 俺が口にしたのは、実に詰まらないことだった。

「なぜ言わなかったんだ。あの糞親父――王との賭けのことを」
そんなことより、『愛してる』とか、瞬の魅力を称える言葉とか、言うべきことはいくらでもあるのに!
「言えるわけないでしょう。そんな賭けの景品にされてるなんて、みっともない」
瞬の背と腰にまわされていた俺の腕から さりげなく身を引いて、瞬が言う。
瞬のその振舞いが俺は不満だったんだが、瞬は要するに礼節を重んじる人間なのだと思い直して、俺は瞬の節度ある態度を責めることは控えた。
瞬は、まだ『愛してる』も言っていない相手と抱き合うなんてハシタナイことだと思っているに違いない。
それだけのことなんだ。

「それで、試合が終わってからでは遅すぎると言っていたのか」
瞬の兄が俺との立ち合いに負けていたら、あの助平親父は即座に嬉々として瞬を王の寝室に引き込んでいたに違いない。
親子で趣味が似ているのは、口惜しいが事実のようだ。
瞬を手に入れるためになら、俺だって何をするかわからない。
いや、俺はどんなことでもするだろう。
瞬を、この腕と胸に抱くためになら。

「陛下は、その……嫌いじゃないけど、陛下にそんなことされるのかと思うと、ぞっとして、どうしても嫌で――」
「俺ならいいと思ったから、あんな条件を飲んだのか」
「氷河くらい強い人に会ったのは初めてだったし、氷河はお母様のことをとても愛してて、悪い人には思えなかったし、それに――陛下より氷河の方が綺麗だから、氷河になら、そういうことされても、が……我慢できるんじゃないかと思ったの」

瞬の言葉は いちいち可愛い。
『愛してる』なんて台詞より、はるかに気が利いている。
おまけに、その可愛い台詞を恥ずかしそうに告げる表情や仕草は、言葉よりも魅惑的だ。
「この美貌を与えてくれた母に感謝しよう」
俺は心から亡き母に感謝した。
それを、瞬は、からかいの言葉と解したらしい。
瞬は、少し意地を張ったような目をして、俺に言い募ってきた。
「ぼ……僕だって、自分がわからなかった。会ったばかりで、その日のうちにどうしてあんな気持ちになったのか。ただ、氷河の目がとても綺麗で、寂しそうで、僕は――引き込まれそうな気持ちになって、だから――」
「……」

どうやら俺たちは、互いに同じような惹かれ方をしていたらしい。
ここまでくれば もう改まって『愛してる』なんて台詞を吐く必要もないだろうと考えて、俺は瞬の髪に手を伸ばし、触れた。
淡い色のやわらかい髪に触れ撫でることが これほど心地良いのなら、瞬の肌はどれほどの陶酔を俺の手に運んできてくれるのか。
想像しただけで、俺は、自分の指が燃え立つような錯覚に囚われた。

「それは、あれだ。運命というやつだ」
「そんなもの、僕は信じていません」
「信じてくれ。俺はおまえの運命の恋人だ」
「氷河がそう言うなら、信じてあげてもいいけど……」
「よかった」
無理に余裕があるように見える態度で、俺は瞬の唇に自分の唇を重ねた。
髪に指を絡ませ、もう一方の手で瞬の肩を強く――強く掴んで。
本当は、余裕どころか――俺の身体は(特に下半身は)非常に切羽詰まった状態になっていたんだが。

「あ……」
瞬の唇から可愛らしい溜め息が洩れ、そのくすぐったいような小さな声が、俺の欲望に火をつける。
俺は瞬の身体をなるべく優しく抱きしめて、その耳許に囁いた。
「俺の寝室の場所を知りたいだろう?」
途端に、瞬の身体が強張る。
羞恥のせいというには、あまりに硬い感触。
俺は一抹の不安に囚われた。

「俺に信頼を返しにきてくれたんだろう?」
瞬が身体を強張らせた理由が、たとえ羞恥のせいでなく恐怖のためだったとしても、俺はそんなものに この恋を妨げられるつもりはなかった。
俺と一晩を共に過ごすと、瞬は俺に約束したんだ。
その約束をなかったことにするなんてことは、騎士道にもとる行為だ。

だが、瞬は――俺のキスにうっとりしているようだった瞬は――きっぱりした態度で、俺の胸を押しのけてきた。
そして、一度深呼吸をしてから、
「あの約束はなくなったものと認識しています」
と言い切った。
ひどく硬い口調――冷静な口調で。
「なに?」

俺はもちろん驚いた。
当然だろう。
瞬はあの時、はっきりと、『僕も氷河に信頼を返します』と言った。
むしろ俺の方が、その約束を反故にすることを考えていたんだ、あの時は。
「な……なぜだ」
「だって、氷河は兄さんと剣を交えていないでしょう?」
「そ……それはそうだが……」
俺は内心、大いに慌てた。
それは確かにその通りだが、だが、瞬はあの時 確かに、俺のものになることを決意してみせた。
そして、この場合 大事なのは、その決意に至った事情なんかじゃなく、瞬がその決意を為したという事実そのものだったろう。
瞬が俺に身を任せてもいいと思ったこと。
そう思ったことが肝心なんだ。
俺が嫌いだというのならともかく、瞬も俺を憎からず思ってくれているのなら、なおさらそうだろう!






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