「人間って――ううん、僕って馬鹿みたい」
「ん?」
「あれこれシリアスに自虐的なことを考えて落ち込んでたのに、なのに、氷河に抱きしめてもらうと、それだけでさっぱりした気分になって、幸せな気持ちになっちゃうんだから、単純」
氷河のことを あれこれ言う権利は、僕にはない。
僕は多分、氷河以上に氷河とのセックスが好きだ。
音楽療法とか遊戯療法とか箱庭療法とか、心理療法にはいろんな技法があるけど、セックス療法っていうのはないのかな。
これ・・は、遊戯療法も行動療法も、イメージ療法から内観療法まで、すべてを兼ね備えた最高の心理療法だよ。
単純で、しかも効果抜群。

「そう単純でもない」
「え」
僕は、最高の心理療法理論を構築できるところだったのに――氷河がふいに短く、僕の構築しかけた理論に水を差してきた。
水を差すっていうより、氷河は、僕のセックス療法理論の致命的欠陥を指摘してきたんだ。
「おまえ相手でないと、俺は さっぱり幸せな気分にはなれないからな。他の誰かでは駄目だ、多分」
と、氷河は言った。

「他の誰か……って……。いや。氷河でなきゃ、僕は こんなふうには――氷河でなかったら、あんなの痛いばっかりだ」
僕が提唱しようとしている心理療法には、稀有で特別なパートナーが必要だっていう、実現の難しい条件があった。
そうだ。
氷河のでなかったら、あんなの、すごくもなければ素敵でもない、ただの不気味な異物だよ。
氷河でなかったら――。

その事実に思い至ったら、僕は、僕が氷河を失うことがとても恐くなってきた。
氷河がいなくなってしまったら、僕はどうなってしまうんだろう。
そんなことになってしまったら――僕は、僕を傷付けるすべてのことに僕一人だけで立ち向かい、僕一人だけで乗り越えていかなくちゃならないの?
そんな孤独な戦いを、僕は戦っていけるんだろうか――?
そんな未来を想像しただけで、僕は ぞっとした。
頬から血の気が引いて、あんなに熱く燃えていた身体が、急激に冷めていく。
おそらく冷たく冷えてしまった指で、僕は氷河の腕にしがみついた。

そんな僕を下目使いに見て、氷河が僕の髪に唇を押し当ててくる。
「こんなふうに執着できる相手に巡り会えたことが、幸運なんだ。普通は、求めても巡り会えない」
氷河が、僕の冷めかけた身体に熱を分けてくれる。
僕は少し安心して――ううん、すごく安心した。
そう。僕たちは、ちゃんとこうして出会うことができた。
きっと他の人たちだって、僕たちとおんなじだよ。

「そんなことないでしょ。人は誰だって誰かを愛してて――誰かに執着してるでしょ」
人は誰でも恋をしてるし、恋人や、恋人じゃなくても大切な友人たちと毎日を楽しそうに過ごしている。
僕と氷河みたいに、命をかけた戦いの中で 思いを燃え上がらせることもできないのに、どうしてそんなに簡単に自分のパートナーを見付けることができるのかって、僕はそれが不思議でならないけど、実際にみんながそうなんだから、現実はそうなんだろう。――と思う。
なのに氷河は、そういう人たちの恋を、事もなげに切って捨てた――多分。

「それは、そういう相手に巡り会うことのできた幸運な人間の考え方だな」
「え?」
「一部の人間が、自分の出来の悪い遺伝子を受け継いだ子供を、異様なほどの執念で欲しがるのはなぜだと思う」
「それは――」
氷河は急に何を言い出したんだろう。
人が自分の子供を欲しがる訳?
それは、種の保存の本能?
そういうわけでもないのかな。
本能なら、それはすべての人間が備えているもののはずだもの。

僕には、氷河が投げかけてきた謎の答えがわからなかった。
そして、氷河が口にした“答え”は驚くべきものだった。
少なくとも僕は、ひどく驚いた。
「自分が無条件に愛し執着できる人間を、手っ取り早く手に入れるためだ。自分を頼り必要としてくれる人間を、より容易に作り出すため。人間は、自分が愛せるもの、自分を必要としてくれるものを、他の何よりも求めているんだ」
そう、氷河は言ったんだ。
「それほど、個々の人間は孤独だということだ。一人では、自分が生きていることの意味を感じることもできない」

「……」
氷河の考えには 一理はあるのかもしれない。
僕がそう思うことができたのは、氷河がそれを『一部の人間のこと』と限定していたからだった。
種の保存の本能が一部の人間にしか備わっていないっていう考えに比べれば、それは相対的に・・・・ 自然な・・・考え方だ。
それにしても――。

「氷河って、クールというよりニヒルだね」
人間を、そんなに悲しくて寂しいものだと思っているなんて。
「おまえに出会わなかったら、俺は立派な虚無主義者ニヒリストになっていただろう。ロシアはニヒリズムの本場だしな。おまえに出会えたおかげで、俺はこんなふうに おめでたく幸せな男でいられる」
ニヒリストになり損ねた氷河が告げる結論は、でも、なんだかとっても甘ったるいものだった。
僕は甘党だから――甘いものは好き。

「じゃあ、僕もおめでたくて幸せな人間なのかな」
「違うのか」
氷河が左の腕で僕の頭を抱え込み、僕の頬を氷河の胸に引き寄せる。
氷河の心臓の音。
規則正しく力強い、氷河の鼓動。
僕は、氷河の鼓動や体温に触れていると、お母さんに抱きしめられてる時の子供がこんなふうな気持ちになるのかなあ……って思うんだ。
氷河には、そんなこと、絶対に言えないけど。

「ううん。きっとそうなんだと思う。だって、今、僕はとっても幸せだもの。氷河といられて」
氷河の体温と鼓動。
氷河には絶対に言えない秘密。
なんだか僕は無性に嬉しくなって、氷河の胸の中でくすくすと含み笑いを洩らしてしまった。
「何を話していても、僕たちが巡り会えてよかった――っていう結論に落ち着いちゃうんだね」
「実際、そうだからな」
「うん、そうだね」
微かに頷いて、氷河の体温と鼓動の中で、僕は目を閉じた

氷河は温かい。
すぐに迷路にはまる僕を、氷河はいつも辛抱強く慰め力づけてくれて――。
僕は、氷河がいてくれなかったら、狂わずに生きていることができないような気がする。
一人ではきっと、いつまでも迷路から抜け出すことができず、堂々巡りばかり続けて、前進できない。

でも、僕は本当は、氷河に慰められるだけじゃなく、氷河を明るくて幸せな気持ちにしてあげられるような人間になりたいんだ。
そのためになら、優しい振りも、清らかな振りも、強い振りもできるし、したい。
それが偽りで、装ったもので、本当の僕の姿でなかったとしても、氷河を幸せにするためになら、きっと僕は一生そういう僕を演じ切ってみせる。

それを、ずるさというのか、汚れというのか――あるいは、強さ、優しさというのか、僕にはわからない。
もしかしたら、そういう気持ちこそが“清らかさ”なのかもしれないとも思う。
それは、大切な人のための偽りだもの。

そうだね。
考えてみれば、僕は自分が清らかな人間でありたいと願ったことは、これまでただの一度もないんだから、ハーデスに『清らか』の烙印を押されたことなんかに傷付いていても始まらない。
それに、僕は やっぱり――ハーデスのことを考えているより、氷河のことを考えている方が、百倍も楽しいよ。






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