瞬は、元に戻ってはくれなかった。 つまり、俺は、翌日からまた禁欲の日々を強いられることになってしまったんだ。 我慢したあとの方が快楽が増すとか、大胆になれるとか、そんなことを考えての禁欲かとも思ったんだが、事態はそんな のんびりしたものじゃなかった。 瞬は、明白に俺を避けていた。 正確に言うと、俺に触れられることを避けていた。 その事実に気付いていながら――俺に触れられると我慢が続かなくなってしまうから、瞬は俺に触れられることを避けているんだろうと、俺はたかをくくっていた。 いや、おかしいとは思っていたんだ。 いくら瞬が、瞬の中に眠っていた官能を目覚めさせ、恐れを覚えるほど性の快楽を急激に知らされてしまったのだとしても、俺の指先が髪に触れるだけで全身を硬直させるという瞬の反応は常軌を逸している。 あの行為は、激しいだけでなく、安らぎや優しさをもたらすものであることを瞬に教えてやらなければなるまいと、俺は考え始めていた。 そんなある日。 二度目の禁欲の日々が続いていた その日。 ラウンジで瞬の姿を認めた俺が瞬の側に近付いていくと、その日は瞬は俺の手から逃げ出す素振りを見せなかった。 俺が瞬の肩に手を置いても、瞬はその手からすり抜けようとしない。 いったい昨日と今日とで、俺の何が違い、瞬の何が違うのか――。 それは俺にはわからなかったが、今日の瞬は俺に触れられても平気らしい。 当然、俺は期待した。 だが――俺がその期待を口にする前に、その場で とんでもない大事件が勃発したんだ。 俺は多分、北極の氷がついにすべて消滅したという報に触れても、瞬のその一言を聞いた時より驚きはしなかっただろう。 瞬は――その肩に俺の手が置かれていることに気付いている瞬は――その場にいた龍座の聖闘士に向かって、突然、 「ねえ、紫龍。僕と寝てみない? 必ず満足させてあげるから」 と言ったんだ。 紫龍が――あの紫龍が絶句して全身を硬直させる図というのを、俺は初めて見た。 俺の存在にも、紫龍の反応にも 気にとめた様子を見せず、瞬がその先の言葉を継ぐ。 「紫龍みたいに くそ真面目ぶった堅物が、あの時に どういう顔をするのか見てみたいんだよね」 「……」 紫龍が、その表情のみならず手足までをも硬直させていたのは、奴が くそ真面目ぶった堅物だからじゃない。 瞬が知らないだけで、紫龍は――まあ、それなりにあれこれと経験を積んでいる海千山千の男だ。 紫龍は言葉を発することなく、腹を立てていた。 『ふざけるな』と瞬を怒鳴るのは俺の役目だと心得ているから、奴は無言でいただけだ。 もちろん、瞬の瞬らしからぬ言葉に驚きを感じていないわけではなかったろうが。 俺が瞬と最後に寝た日から10日ほどが経っていた。 性の快楽を知ってしまった瞬には、そろそろ禁欲の日々も限界だろうとは、俺も思っていた。 だが、俺に婉曲的に誘いをかけるためにしても、それはあまりに下卑たやり方だ。 そして、あまりに瞬らしくない。 「瞬。おまえは自分が何を言っているのかわかっているのか」 俺が、無理に抑えた声で静かに怒鳴りつけると、瞬はそんな俺を見て苦笑した――いや、苦笑というより、それは挑発のための笑みだった。 「3人でもいいよ。なんなら星矢も一緒にする?」 「……」 俺は――これには、さすがの俺も絶句した。 「星矢みたいな腕白タイプも面白そう。初めてだよね?」 「……瞬、おまえ、気でも狂ったのかよ」 星矢が、これは あからさまに不愉快そうに顔を歪める。 「正気だと思うけどなあ。気が狂ってるように見えるの?」 瞬は、星矢の非難にも動じた様子を見せなかった。 完全に平常心を保っている声音で、星矢に尋ね返す。 星矢の答えは、星矢らしくなく、突き放すように冷たいものだった。 「見える。今のおまえは正真正銘のキチガイだ」 「それ、差別用語だよ」 瞬は――これは本当に瞬なのか?――、完全に本気で腹を立てている星矢を見やり、くすくすと楽しそうに笑った。 それが星矢の神経に障ったらしい。 それにしても、本気で憤った時の星矢が、こんなに物静かな態度を示すものだとは。 それは俺にも意想外のことだった。 その星矢が、怒りを内に込めたような目で、瞬を睨みつける。 「俺の知ってる瞬は、こんなののどこがいいのかは知らねーけど、氷河に純愛捧げてる馬鹿だった」 「どこがいい……って、あれがいいに決まってるでしょ。氷河のとりえなんて、綺麗な顔と綺麗な身体とあれが強いこと以外――」 星矢は、紫龍と違って役割分担なんて堅苦しい作法は心得ていない。 それ以上 瞬の言葉を聞きたくなかったのだろう星矢は、俺に遠慮もせず、自分の腕に指を絡みつかせてくる瞬の 瞬が呻いて 前のめりに――つまりは星矢の腕の中に――崩れ落ちる。 「星矢っ!」 俺は、多分 馬鹿なんだろう。 俺を侮辱する言葉を吐いた瞬より、正当な怒りを発しただけの星矢の方を 責めずにいられなかったんだから。 星矢は、奴の腕の中でぐったりしている瞬の身体を、俺の手に押しつけてきた。 そして、奴も、瞬ではなく俺に向かって、怒声を叩きつけてきた。 「俺はちゃんと手加減した! こんなのをよけられないなんて、これ、瞬じゃねーぞ!」 「瞬じゃない……?」 「同感だな。これは瞬じゃない」 越権行為に及んでおきながら悪びれた様子もない星矢を見やって 口許を歪ませていた紫龍が、星矢のその意見には同意し、頷く。 これが瞬でなかったなら どんなにいいかと、俺自身も思っていた。 だが、今 俺の腕の中にいる瞬は、確かに瞬だ。 髪も指も、腕の細さ、身体の軽さ、何もかもが、俺の知っている通りの瞬。 が、紫龍たちをその結論に至らせた判断材料は、瞬の姿態ではなかったらしい。 「俺の――俺たちの知っている瞬は、どうしてそこまでと思うほど、おまえだけを見て、おまえに献身的で、たとえ おまえを挑発するためだったとしても、あんな不実なことは 口が裂けても言えない奴だ。これは瞬じゃない」 「……」 それは正しい結論なんだろう。 俺の知っている瞬も、確かにそういう人間だった。 しかし、だとしたら、今 俺の腕の中にいる 「瞬でなかったら……これは誰だというんだ」 「瞬ではない何者か、だろうな」 答えにはなっていないが、それ以外に正答のない答えを、紫龍が低く告げる。 「ハーデスみたいに、瞬の身体を乗っ取ろうとしてる何かがいるんじゃねーのか。清らかが売りの瞬を汚すことに倒錯的な快感を覚えてる変態の神様とかさ」 「どちらにしても、戦闘力はない神だな。そして、情もない」 俺の腕の中でぐったりしている瞬の青ざめた横顔を見て、紫龍は初めて その目に痛ましげな色を浮かべた。 |