得心できないまま、俺は瞬が横になっているベッドの枕元に腰をおろし、瞬の頬に頬に触れようとした。
「触らないでっ」
途端に瞬の鋭い声と手が、瞬の頬に触れようとしていた俺の手を拒絶する。
これまでにも幾度か経験してきた この場面。
瞬は小刻みに身体を震わせ、蚊が鳴くように小さな声で俺に懇願してきた。
「お願い。触らないで」
「瞬……なぜだ?」

ここにいるのが俺の心だけが好きな瞬なのだとしても、こうまで俺との接触を避けようとするのはなぜだ。
この瞬が、すべての接触が性交につながるものだと考えているのなら、これこそは心を軽んじた考え方じゃないか。

「ご……ごめんなさい。僕は氷河が好きなの。今でもすごく好き。氷河がいないと寂しくて、こうして生きていることもすごくつらいって思う。でも、彼が出てきてから――僕は氷河に触れられることに耐えられなくなってしまったんだ。触れられると、あの……吐きそうなくらい気分が悪くなって、痛い……の」
「痛い――とは」
「見て」
見るからに つらそうな仕草で、瞬がその手を俺の前に差し出す。
瞬の手は――たった今、俺の手を払いのけたばかりの瞬の手の甲は、俺の指と触れた箇所が赤く――まるで火傷でもしたように腫れていた。

俺は呆然としてしまったんだ。
無論、こういう現象は、他に例のないことじゃない。
精神が肉体に具体的な影響を及ぼすことは、よくあることだ。
ストレスで胃に穴を開ける人間なんて、この世には五万といる。
だが、瞬の手の腫れを見せられた俺は、そんな症例ではなく――ショーペンハウアーの唱えたヤマアラシのジレンマを思い起こすことになったんだ。

寒空の下にいる2匹のヤマアラシ。
彼等は互いに身を寄せ合って互いの身体を温め合いたいと思っているが、その身を覆う針が相手を傷付けることになるので近付くことができない――。
あれは、『自己の自立を望む欲求』と『相手との一体感を望む欲求』によるジレンマを表わす寓話だが、瞬のこれはそれとも微妙に違っている。
これが『瞬の自立』と『俺との一体感』のジレンマによる現象なら、瞬は自分の中に二つの人格を生む必要はないはずだ。

「では、あれはハーデスのようなものなのか? ハーデスがまた、おまえの心と身体を支配しようとしているのか?」
「違うと思う……そうじゃないよ。ハーデスって、綺麗事ばっかり言う、かっこつけの激しいスタイリストだったじゃない。僕は瞬だよ。僕も瞬だと思うけどなあ」
ふいに俺の瞬が――正確には、俺が好きになった瞬により近い性状を持った瞬が消え、もう一人の瞬――俺とのセックスだけが好きな瞬が、瞬の表層に現われる。

『瞬 ' 』が『瞬 ' '』に変わったことは、俺にもすぐにわかった。
二人は、口調だけでなく表情も違っている。
『瞬 ' '』は『瞬 ' 』に比べると、口角が少し上がり気味で、眼差しには妙に自信が漂っているように見えた。
二人の印象は全く違う。
姿は、瞬のままだというのに。

「あんたの健気な瞬のことは、もう諦めなよ。あんたは瞬の身体が好きなんでしょ。それはここにあるんだから、それでいいじゃない」
「……」
「瞬はね、あんたのために自分の身体を変えたんだ。痛いだけのあの行為を快感と思い込めるように、無理に自分の意識と身体を作り変えた。そんな無理なことするから、僕みたいなのを生んじゃったんだ」

この瞬は、自分の方が本来の瞬からかけ離れた性状の持ち主だということを自覚しているようだった。
むしろ、自分を『瞬』から分離派生して生まれた別人格と認識しているらしい。
この瞬の認識はおおむね正しいが、しかし、この瞬もまた本来の『瞬』を内含した瞬のはずだ。
そして、この瞬は『瞬』が自覚していない『瞬』を知っている――。

「瞬は……俺のために無理をしていたのか」
俺は、探るように『瞬 ' '』に尋ねた。
『瞬 ' '』が確信を得ている様子で頷く。
「無理でしょ。氷河だから・・・・・ 何だっていうのさ。ただの、世の中にいくらでもいる男の中の一人。特別なとこなんて、何もない。まあ、セックスは強いけどね。そこは僕好みだよ。もう10日もしてないでしょ。する?」

瞬でない瞬がベッドの上で身体を起こし、俺にしなだれかかってくる。
この瞬は、俺に触れても傷付くことはないらしい。
10日振りに触れる瞬の肌。
外見は、俺の見知っている瞬そのもの。
肌の感触も、もちろん俺の瞬のそれ。
この瞬は、本来の瞬より扇情的で官能的だ。

だが、ときめかない。
不思議なほどに、俺の心と身体はこの瞬に対して無感動だった。
着衣の上からとはいえ、性器に触れられているというのに。
「どうしたの。氷河こそ無理しないで。以前は、瞬を見るだけで、あさましいくらい頭を持ち上げてたじゃない、この正直な子は」
「ショッキングなことが起こったから、使い物にならなくなったんじゃないのか」

瞬に似た瞬は、己れの感情を隠すことが不得手らしい。
俺の無反応に苛立って、奴は歯噛みをした。
俺はといえば、あまりに正直すぎる自分の身体に半ば呆れていたんだ。
そう。俺の好みは、聖母を思わせる清純派。
こればかりは、変えようと思って変えられるものじゃない。

「なに、それ。どういうこと! 不能になったとでもいうの。ちょっと冗談はやめてよね! それだけがとりえのくせに!」
「ちょうどいい。おまえなんか、俺の好きになった瞬じゃない」
これ・・が、ハーデスのように瞬の外からやってきた何者かではなく、瞬の内から生まれたものだというのなら、俺がその存在を徹底的に否定することで、これを消してしまうことができるかもしれない。
『瞬 ' 』と『瞬 ' ' 』を統合して、元の『瞬』に戻すことができるかもしれない。
その結果残るのが、俺との接触を忌避する瞬だったとしても、瞬が俺と触れ合うことを嫌だというのなら仕方がない。
最初に瞬に無理を強いて、瞬を変えてしまったのは、この俺だ。

優しく強い瞳を持った瞬と、言葉を交し、心と眼差しを交し合うこと。
最初から――最初は、それだけが俺の望みだった。
俺が欲しいのは、瞬の優しさと強さで、俺もできれば同じものを瞬に返してやりたいと思った。
そんな瞬だから抱きしめたいとも思ったんだ。

「僕を好きなんじゃないのっ !? 僕の身体、あんなに好きだって言ってたじゃない! 綺麗だって! 最高だって! あんたが何度もそう言うから、だから瞬はあんた好みにどんどん自分を変えていったのに!」
「おまえは、俺の好きになった瞬じゃない。瞬に戻れ」
「瞬なんて、元に戻っても抱けないよ! 瞬は、あんたに触られると傷付くようになってるんだから!」
「それでも、俺は、俺の瞬がいい」

それが、俺の好きになった瞬が、俺に望む答えだろう。
瞬を抱きしめることができなくてもいいと、俺は本心から望んでいるわけじゃない。
しかし、他に答えはないんだ。

俺の推察通り、瞬でない瞬は、それだけで――俺の否定の言葉だけで、あっさりと消えてしまった。
瞬ではない瞬とはいえ、瞬の内から生まれたもの。
俺に存在を否定されれば、それだけで『瞬 ' ' 』は自身の存在意義を失う。
「こんなののどこがいいのかは知らねーけど」と言っていたのは星矢で、「どうしてそこまでと思うほど」と言っていたのは紫龍だったか。
本当に、瞬はこんな俺のどこがいいんだろうな。
俺自身も不思議でならないが、それくらい瞬は俺を好きでいてくれるんだ。






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