花が咲き乱れる春の野に佇んでいるのは 可憐な美少女もしくは美女――と相場が決まっている。 冥府の王ハーデスにさらわれた豊穣神デメテルの愛娘ペルセフォネーしかり、ギリシャ最高の吟遊詩人オルフェウスの愛妻エウリュディケしかり。 平和で美しい花園で 恋の情熱に囚われた男に見初められ、言い寄られ、花を散らして逃げ惑い、さらわれるのは、咲き乱れる花々に負けず劣らず美しい女性であってほしいというのが、古代ギリシャの詩人や劇作家の願望だったのだろう。 そして、神話や雅歌に謳われた美しい場面は後代に語り継がれ、そのイメージは人から人に受け継がれていったに違いない。 とはいえ、瞬は、決して花園の中に可憐な美少女以外のものがいてはならないと決めつけていたわけではなかった。 決して、花園の中にモヒカン刈りの大男がいてはならないと思っていたわけではない。 が、古代の詩人たちのイマジネーションの後継者の一人だった瞬は、その光景を異様な光景だと(失礼ながら)感じてしまったのだった。 つまり、モヒカン刈りの大男が、神話の時代の香りを残す聖域内にある のどかな春の野にいて、可憐な様子で花を摘んでいる姿を。 (え……と、あれは確か、星矢とペガサスの聖衣を争った――) 蛇遣い星座オピュクスのシャイナの愛弟子カシオス。 その名がすぐに出てこなかったのは、瞬が彼とまともに対面するのはこれが初めてだったからで、これが初対面になる人物の名を瞬が知っていたのは、星矢から彼の話を聞いていたからだった。 『聞いていた』といっても、 「タコみたいな見てくれで、性格もかなり凶暴なんだけど、本当は悪い奴じゃない――と思う。多分」 と、その程度のことだけだったのだが。 星矢とペガサス座の聖衣を争うほどなのだから、彼はそれなりの力を備えているはずである。 しかも、星矢曰く、『かなり凶暴な性格の』人物。 その凶暴な人物が、本来なら美しい少女もしくは女性が佇んでいるべき場所で、可憐な少女顔負けの楚々とした様子で花を摘んでいるのだから、瞬がその光景を異様と感じても、それは仕方のないことだったのかもしれない。 カシオス自身が異様なのではなく、花の中に佇むカシオスの図が異様だったのだ。 これは彼の名誉のためにも見なかった振りをすべきかと、瞬は迷ったのである。 瞬がその答えに至る前に、カシオスの方が瞬の視線に気付く。 「……アンドロメダ」 もし彼に気付かれる前に その答えに至ることができていたならば、瞬は静かにその場を立ち去っていただろう。 が、気付かれてしまったあとでは、なかなか立ち去ることも難しい。 アンドロメダ座の聖闘士がそこにいることに気付いたカシオスは 妙な顔をした――僅かに眉間に皺を寄せた。 『少女趣味』としか言いようのない場面を見られて、彼は気まずさを覚えたのかもしれない。 瞬は その時はそう思った。 「え……と、あの……」 瞬が“恐る恐る”彼の側に歩み寄っていったのは、星矢が言っていた彼の凶暴性を恐れたからではない。 いくら凶暴でも、彼は、言ってみれば一般人で、瞬は聖闘士なのだ。 二人の体格に大人と子供ほどの差があっても、瞬が彼に戦闘力で劣ることはない。 ただ、やはり瞬は、『花とモヒカン刈り』という組み合わせに感じる違和感を、胸中から消し去ることができなかったのである。 「お花……摘んでるの?」 「あ……ああ」 「摘んで どうするの?」 素朴な疑問――それは、あまりにも素朴かつ奇妙な疑問だった。 これが可憐な美少女が相手のことであれば、瞬も そんな疑念を抱くことはなかっただろうが、カシオスのように猛々しい姿をした人物が花を愛でることがあろうとは、瞬には なかなか考えにくかったのだ。 「シャイナさんが、ここのところ沈んでるんだ。花を見たら心が安らぐかと思って」 「え……」 それは、思いがけない返事だった。 もちろん、彼自身が花を愛でるのだと言われても――瞬には にわかには信じ難かったろうが――それはあり得ないことではない。 しかし、星矢曰く『凶暴な性格の持ち主』に、そんなふうに優しく こまやかな気遣いのあることを示されて、瞬は意外に思わないわけにはいかなかったのだ。 そして、意外と思ってしまった自分を、瞬は恥じた。 「シャイナ――」 5秒間迷って、瞬は彼女に『さん』をつけて呼ぶことにした。 「さんが? 僕もお見舞いに行こうかな」 先程 瞬の姿を認めて妙な表情になったカシオスが、瞬のその言葉を聞いて、更にその顔を歪める。 こころなしか、彼は一瞬 肩を強張らせることもした――ように、瞬には見えた。 それは、だが本当に一瞬のことで、彼はすぐに緊張を解き、 「ああ、君みたいに綺麗な人が来てくれたら――花よりも効果があるかもしれないな」 と呟くように言い、浅く頷く素振りを見せた。 今度は瞬が肩を怒らせる番――である。 会うたび多くの人間に告げられる『綺麗だ』『可愛い』等の言葉は、瞬の意識の中では既に侮蔑の言葉以外の何物でもなかった。 世辞のつもりで言っているのなら許し難く、本気で言っているのなら耐え難い。 それらの言葉は、瞬にとってはそういうものだった。 そういう言葉を、カシオスは瞬の前で口にしたのだ。 しかし、そう告げるカシオスの口調は微妙に沈んだものだった。 軽率な世辞の類には聞こえず、むしろ羨望の響きを含んでいるような声音。 その響きを訝ってしまったせいで、瞬は不快の感情を表に出すタイミングを逸してしまったのである。 代わりに、これは人に羨まれるようなものではないと、瞬は胸中で力なく呟いた。 もし人間が自由に 顔や身体を自由に取り替えることができるのなら、ぜひとも彼の姿と自分の姿を交換してほしい――。 カシオスを見て、瞬はそう思ったのである。 瞬にしてみれば、カシオスはそういう容姿の持ち主だった。 この姿なら、少女に間違われることもなく、敵に侮られることもないだろう。 『可愛い』と言われて傷付き、傷付いた心を懸命に押し隠す物悲しさなど、彼は一度たりとも経験したことがないに違いないのだ。 それでも。 ともかく、彼が優しい心の持ち主だということは確かな事実のようだった。 彼の無骨で大きな手の中にある薄紫の花を見て、瞬は思わず微笑んでしまったのである。 決して小さな花ではないのに、彼の手の中にあると、それが愛らしいばかりの花に見える。 「もしかして、あなた、シャイナさんが好きなの?」 瞬が尋ねると、カシオスは実に見事に――顔から首までを真っ赤に染めて、慌てふためいてくれた。 「ななななななんで、そんなことっ!」 「その花、アガパンサスでしょ。ギリシャ語で『愛らしい花』――『愛の花』。花言葉は『恋の訪れ』っていうんだよ」 「えええええええっ !? 」 「それに、女性に花を贈るのって、恋をしてる人の発想だと思うけどなあ」 「そそそそそそそんなことがああああああるはずがっ !! 」 カシオスの赤い部分は、既に頭部だけではなくなってしまっていた。 ショルダーのパーツを押えるための革の肩掛けベルトしか身につけていない胸から腕まで、まさに全身の血を沸騰させているといった風情。 そんな彼を見て、瞬は、またしても失礼なことに、『まるで茹でダコのように可愛い』と思ってしまったのである。 あまりの正直さに微笑ましさを感じ、瞬はつい吹き出してしまった。 「カシオスさんって、わかりやすい」 瞬がそう言った途端に、どすんと音を立てて、前触れもなくカシオスが花園の中で尻餅をつく。 「ど……どうしたのっ。大丈夫?」 「悪いが、『さん』をつけるのはやめてくれ。カシオスでいい」 「え……?」 彼に古いギャグマンガさながらの尻餅をつかせることになった原因は、どうやら瞬に『さん』づけで名を呼ばれたせいだったらしい。 体格は大人と子供ほどの差があるが、自分たちの年齢差はそこまでのものではないのだということを思い出した瞬は、小さく彼に頷いて、その呼び方を改めた。 「じゃあ、カシオス!」 「ああ、そう呼んでくれると ありがた――」 「僕のことも瞬って呼んでね」 にっこり笑って瞬がそう言うと、なんとか態勢を立て直しつつあったカシオスは、なぜか再び後ろに引っくり返った。 そのカシオスの正面に立ち、顔を覗き込むようにして、瞬が問い詰める。 「カシオス、白状しなさい。シャイナさんが好きなんでしょう?」 「あ……わ……わ」 カシオスは、わかりやすいだけでなく、嘘をつけない こういう場面を巧みにごまかす術など、彼には習得不可能な高度の技だったのだろう。 顔と顔の間が僅か10センチという至近距離で、どアップの瞬に迫られて大赤面していたカシオスは、瞬の詰問に やがて静かに表情を曇らせていった。 |