- II -






事情を話すと、沙織はすぐに聖域行きのジェットヘリを用意してくれた。
氷河が瞬に同行を申し出たのは、彼が女装の決意をしたからではないようだった。
瞬は一人で謝ってくると訴えたのだが、氷河は、
「側にいて止める奴がいないと、おまえは言ってはならないことを言ってしまいそうだ」
と言って、譲らなかったのである。

そうして二人で赴いたシャイナの家。
そこに、瞬が謝る相手のカシオスはいなかった。
シャイナが言うには、彼は菓子の材料を求めてアテネの町に出ているとのこと。
「いったいどうしたんだい? カシオスはもう少しすれば戻ってくるとは思うけど……」
「あ……いえ、あの……はい……」
カシオスがいないと、水もビスケットも出てこない。
シャイナは、なぜ日本に帰国したばかりの瞬がギリシャにとって返すことになったのか、その理由を訝っているようだった。

カントリー風というには あまりに質素な木のテーブルの上には、今日もアガパンサスの花が飾られている。
瞬が、ふいに思い切ったように、
「シャイナさんは、カシオスのこと、どう思ってるんですか」
と 切り出した時、氷河はすぐに瞬を押しとどめようとした。
氷河に掴まれた腕を無視して、だが、瞬は話を続けた。

「カシオス? 可愛い弟子だよ」
瞬がそんなことを話し出した訳を、シャイナは全く理解していないようだった。
もしかしたら彼女は星矢並みに鈍感なのではないかと、瞬は一抹の不安を覚えることになってしまったのである。
カシオスのあの瞳に四六時中見詰められているというのに、シャイナは彼女の可愛い弟子の心に気付いている気配もない。
星矢に対して抱いたものと同じ苛立ちを、瞬は胸中に生みかけていた。

「初めての弟子でね。素直で、健気で、努力家で――あたしも あの子の熱意に応えて一生懸命指導してきたつもりだ。あの子は聖闘士になる力と資格を十分に備えていたのに、あたしの力が足りなかったばっかりに――」
「シャイナさん……」
仮面をつけていても、瞬にはシャイナの表情が手に取るようにわかった。
彼女は、“可愛い弟子”の夢を叶えてやれなかったことに責任を感じ、気落ちし、罪悪感を覚えている。
カシオスの恋心には気付いていなくても、彼女がカシオスを心から愛していることは疑いようがなかった。
ただし、“可愛い弟子”として。

「あの子が聖闘士になれなかったのは、あたしの指導力不足だ。なのに、カシオスはそれを自分の力不足と思い込んで、あたしに負い目を感じているようなんだ。あたしは、あの子のためになら黄金聖衣だって盗んできてやりたいんだけど――」
「黄金聖衣を盗んで……?」
実行に移すことの不可能な例え話としてでも、それは あまりに大胆な発想、危険な発言である。
だが、シャイナの声音は決して軽いものではなく、冗談には聞こえなかった。
そうすることで愛弟子の夢を叶えることができるのなら、彼女は本気でそれをする――本当に してしまいそうだった。
そこまでカシオスのことを思っているシャイナに対して、一時とはいえ苛立ちを覚えたことを、瞬は申し訳なく思ったのである。

「シャイナさんは、本当にカシオスを大切に思ってるんですね……」
それだけは、誰にも否定できず疑うべくもない事実のようだった。
これだけ愛されていれば、カシオスも弟子冥利に尽きるというもの。
この師弟の不幸、カシオスの不運は、彼の求める愛と与えられる愛の種類が違っていたという一事に尽きる。
シャイナの愛情の深さ強さに、もしカシオスが不足を申し立てでもしたら、自分は彼を叱責せずにはいられないだろう――と、瞬は思ったのである。

「あたしは あの子の姉か母親みたいなものだからね。アテナを除けば、あたしにとってカシオスは、この世で いちばん大事で、いちばん信頼している人間だよ」
「星矢より?」
瞬は尋ねずにはいられなかった。
瞬を止め損なった氷河が、その隣りで万事休すというように、右手で顔を覆う。

「星矢?」
シャイナは、なぜここで星矢の名が出てくるのかと怪訝に思ったらしい。
だが、彼女は、その理由を瞬に尋ね返してはこなかった。
瞬は星矢の仲間――命をかけた戦いを共にしてきた仲間――である。
蛇遣い座の女聖闘士が天馬座の聖闘士に仮面の下の素顔を見られたことを、星矢が瞬に話していても さほど不思議なことではない。

シャイナは、仮面の下で微笑んだ――おそらく。
そして、その笑みは、決して明るいものではなかった――多分。
悲しげに微笑んで、彼女は、瞬にきっぱりと断言したのである。
「星矢より信頼してるし、星矢より可愛いと思ってるし、星矢より大切だよ」
「……」
けれど、その愛情は恋ではないのだ――。

「あの……あの……もしカシオスがあなたのことを――」
「瞬っ!」
これ以上、友情という名の瞬の暴走を許しておくわけにはいかない。
ほとんど怒声と言っていいような大声で、氷河が瞬の言葉を遮るのと、
「シャイナさん、すごく美味そうなアプリコットが手に入りましたよ!」
買出しの成果を詰め込んだ籠を小脇に抱えたカシオスが、瞬とシャイナの間に飛び込んできたのが、ほぼ同時だった。

「カシオス……」
瞬には、すぐにわかったのである。
どのあたりからなのかは定かではないが、彼が自分とシャイナのやりとりを聞いていたことを。
カシオスの目は少し赤味を帯びていて、その笑顔は無理に作られたようにぎこちない。

『あたしにとってカシオスは、いちばん大事で、いちばん信頼している人間だよ』
『星矢より?』
『星矢より』
シャイナの言葉は、カシオスには悲しすぎるものだったろう。
姉や母のような愛情を、カシオスはシャイナに求めてはいないのだ――彼は違うものを欲している。

瞬は、隣りにいる氷河の手をぎゅっと握りしめた。
自分が出すぎた真似をしたこと、そのせいで 決して傷付けたくない人を傷付けてしまったことに気付き、泣きたくなってしまったから。

瞬の肩の震えを認めた氷河が、短く嘆息してから、その視線をカシオスの上に移す。
「男同士の話があるんだ。ちょっと出てくれないか」
とにかくシャイナの目と耳のない場所に移動しなければならない。
氷河の意図を察して、カシオスは手にしていた籠をテーブルの上に置き、頷いた。
「さあ、瞬」
氷河に促され、顔を俯かせたままの瞬が、掛けていた椅子から立ち上がる。
その場にシャイナを残して外に出ようとした瞬に、ふいにシャイナが奇妙な質問を投げかけてきた。

「瞬。おまえ、ジュネとは会っているのかい?」
「ジュネさん? いえ。沙織さ――アテナが住まいの方は手配してくれて、元気でいるはずです」
なぜ急にそんなことを尋ねられるのか わからないまま、瞬は問われたことに答えたのである。
シャイナは彼女の問いかけの意味を説明してはくれなかった。
表情を隠した仮面を、今度は氷河の方に向ける。

「氷河は――ほら、絵梨衣とかフレアとか――いろいろいただろう。会ってるのか」
「会わなきゃならない用がない」
「で、紫龍は相変わらず、春麗を放っておいて、平穏な暮らしより戦いを選んだ義の男を気取っている、と」
その通りではあったのだが、今ここでそんな話題を持ち出すシャイナの意図がわからなかった瞬は、質問者に困惑の目を向けることになった。
氷河が、ひどく薄い笑みを、唇の端に刻む。

「ったく、おまえら青銅聖闘士は揃いも揃って冷血漢揃いだよ」
シャイナの仮面の下の表情を、瞬には察することもできなかった。






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