瞬の足元の大地は、どこまでも果てしなく 死で埋め尽くされていた。 頭上には、乾いた血のように赤黒い空。 建物はなく、自然の作る高低差もなく、瞬の立つ場所の周囲 全方向に地平線が見える。 その大地すべてが亡骸――人間の死体で覆われているのだ。 英雄ペルセウスが世界の中心でメデューサの首を掲げ持ったなら、そんな光景ができあがるのかもしれない。 すべての人が死んでいた。 いったい この地上に何が起こったのか、そもそも ここはどこなのか。 アテナの聖闘士としても、一人の人間としても、瞬はまずそれらのことを考えなければならなかっただろう。 そうするのが自然だったはずなのに、瞬の胸に最初に去来してきたものは、自分の仲間たちは無事でいるのかという考え――不安だった。 氷河は、星矢は、紫龍は、兄は、どこにいるのか――生きているのか。 瞬の胸中に生まれた不安は、だが、すぐに消え失せることになったのである。 求める者たちの姿が見付かったために。 彼等は瞬のすぐ側にいた。 彼等は、瞬の足元で冷たく物言わぬものになっていたのだ。 彼等の顔に苦悶や無念の表情は浮かんでいなかった。 彼等は皆、不気味なほどに無表情で、彼等の仲間がただ一人生き残っていることにも完全に無関心でいるように見えた。 無感動に閉じられた仲間たちの瞼、唇――。 瞬は悲鳴をあげたのである。 誰一人聞く者のない悲鳴。 それは声にはならなかった。 「瞬!」 名を呼んでくれた人が誰なのか、数秒の間、瞬にはわからなかった。 それが“生きている”氷河だと気付き、自分が夢を見ていたことを初めて自覚する。 死者しかいない あの世界はただの夢――不気味で不吉な悪夢――だったのだ。 血の気が失せ、死人よりも青い頬をしている瞬の顔を覗き込んでいる氷河の瞳は気遣わしげで、その瞳の片隅では小さな光が反射していた。 ベッドのヘッドボードの小さな灯。 それは、安全のためというより、真闇の嫌いな瞬のために終夜消されることのない さささやかな灯かりで、その灯かりがあるということは、ここは城戸邸の、氷河の部屋だということになる。 「あ……」 氷河が死ぬはずがないのだ。 彼が死んで、不吉な大地に冷たく横たわっているはずはない。 二人は、夕べも一緒に同じベッドに入り、生きている人間しかできないことをして、眠りに就いた。 心と身体の欲望をさらけだし、ぶつけ合い、絡ませ合い、それらを与え奪い合うことで、互いが生きていることを確かめ合ってから。 だからこそ瞬は、安心して眠りの中に我が身を委ねたのだ。 生きているのは自分だけではないことを確信できたから。 氷河の性欲が旺盛であればあるほど、瞬の安心は深く確かなものになった。 氷河が死んでいるはずがない。 氷河だけでなく――星矢も紫龍も瞬の兄も――瞬の仲間たちは皆、殺しても死なないような生命力の持ち主ばかりだった。 それはわかっていたし、知っている。 だが、瞬には、仲間たちどころか人間がすべて死に絶えても自分だけが生き延びている状況を完全にあり得ないことと言い切ってしまえない根拠があったので、あの夢をただの悪夢と思ってしまうことができなかったのである。 「どうしたんだ。悪い夢でも見たのか」 「あ……敵が来て、戦って、ぼ……僕たちが負けちゃう夢」 あの光景を詳細に説明する気にはなれない。 その瞼を固く閉じ、死だけでできた大地に氷河が横たわっていたこと、生き延びた仲間のことなど知らぬげに、氷河が瞬以外の者たちと死を共にしたことなど、瞬は口にしたくもなかった。 「それは確かに悪い夢だな」 氷河が笑って瞬の髪を撫でる。 瞬は氷河の裸の肩と胸にすがっていった。 氷河の温かさに触れてやっと、あれはただの夢だったのだと――少なくとも今は、現実のものではないということを確信できるようになる。 「僕だけが生きてるの。広い世界に僕だけがたった一人で――」 あの世界から、こうして現実に引き戻されずにいたら、時を置かずして、自分はあの世界で死を願うようになっていただろう――と思う。 けれど、その願いは叶わない。 どれほど死を願っても、自分は死ぬことはできない。 瞬は、それが苦しかった。 「死なないで……僕をおいて死んだりしちゃ嫌だ」 「死なない」 瞬の頬に頬を押し当てて、氷河はすぐに瞬の望む答えを瞬に与えてくれた。 それは瞬が望んだ通りのものだったというのに――たとえ悪い夢におびえている者を安心させるためだったとしても、あまりに軽易に響く氷河の返答に、瞬は僅かに憤りを覚えることになった。 「そんなに簡単に言わないで」 これは、とても重要で深刻な問題なのだ。 そして、氷河には前科がある。 あの天秤宮で、いともあっさり自らの生を諦め、その命を彼の師に差し出したという前科が、氷河にはあるのだ。 あまり軽く言われると、かえって信じられなくなる。 この恋に、瞬を引きずり込んだのは氷河である。 氷河には、だから、何があっても生きている義務があるのだ。 「そんなに簡単に言わないで。真面目に約束して。何があっても僕を置いて死んだりしないって。僕を一人にしないって。人間の――個々人の生になんて、何の意味もないんだから。僕ひとりだけが生きていたって、そんなことには何も意味もないんだから……!」 「人間個々人の生には何の意味もないというのも、極端な考え方だな。――簡単に言っているわけじゃないぞ。死んでしまったら、こんなこともできなくなる」 相変わらず、瞬の目には安易に映る笑みを浮かべて、氷河が瞬の内腿の間に手を忍び込ませてくる。 その感触を楽しむように、瞬の脚や腹や他の部分を幾度も撫でて、彼は、瞬の内に生まれた不機嫌を瞬の中から追い払おうとした――らしい。 「あ……っ」 瞬の不機嫌は、そして、それこそ“簡単に”、氷河の愛撫に屈してしまったのである。 「ぼ……僕は真剣に氷河に……あ……んっ!」 「こういうことは、まさしく人間一人一人が営むことだから、人間個々人が生きていることには意味がある」 瞳を熱に潤ませ始めた瞬を見やり、そう言ってから、氷河は、 「ああ、そうか。だから、一人だけ生きていても意味がないのか」 と、思い直したように言葉を続けた。 薄く開いた瞬の唇の内側に舌を差し入れると同時に、氷河が瞬の両脚の間に膝を割り込ませてくる。 「ひょう……が……今夜はもう……」 「おまえの機嫌を損ねたままだと、小心者の俺は安らかに眠れないんだ。大人しく脚を開け」 「ああ……!」 そう言われなくても、既に瞬の膝からは力が抜けてしまっていた。 氷河が生きていることを確かめるためになら、瞬はどんなことでもできた――どんなことでもしたかった。 「あ……氷河……っ!」 氷河が瞬の中に入ってくる。 人は一人きりでは、こんなふうに愛し合うことも、生きていることを確かめ合うことも、幸福を実感することもできない。 (僕はきっと……死ぬことが恐いんじゃなく、一人だけ生き延びることが恐いんだ……) だから、氷河が自分の中に入ってくると、彼をそのまま自分の内に閉じ込めようとし、彼が自分の中から出ていく時には、身体の肉も心までも奪われてしまうような寂しさと不安に囚われる。 この地上に自分ひとりだけが生きて存在すること――それが、起こり得ない未来ではないことを、瞬は知っていた。 |