自分に死神が憑いていることを瞬が知ったのは、瞬がアンドロメダ座の聖衣を手に入れる前のことだった。
今はもう、この地上に存在しない小さな島。
瞬の聖衣の名を冠するあの島で、瞬は瞬の死神に出会ったのである。

兄や仲間たちから引き離され アンドロメダ島に送られた時、瞬はただの ひ弱な子供だった。
心も身体も、同年代の子供に比べると 目に見えて脆弱だった。
他の子供なら難なく乗り越えてしまえることが瞬にはひどく困難なことで、他の子供が1日で習得する技を身につけるために、瞬は10日以上の時間を必要とした。
仲間たちから引き離され、たった一人で送られた あの島で、瞬は、環境の厳しさや修行のつらさは兄との約束を思い出すことで耐えることができた。
だが、自分は落ちこぼれなのだという思いや、自分が聖衣を手に入れることはほぼ不可能だろうという確信に打ちのめされずにいることは困難で、耐えるにしてもどう耐えればいいのかが、瞬にはわからなかったのである。

否、強くなればいいのだということはわかっていた。
だが、強くなってしまえば、自分は自分より弱い者を傷付け、倒さなければならなくなる。
兄との約束を果たすことは、自分が人を傷付ける者になること。
そんなものに、瞬はなりたくなかったのだ。

あの島で、幾度 死んでしまいたいと思ったか。
だが、そのたびに『おまえに死なれては困るんだ』という声が響いてきて、その声は、絶望に打ちのめされている瞬を無理に立ち上がらせた。
瞬は、最初のうちは、それを神か天使の類だと思っていたのである。
その声は、光――銀色の光――の中から聞こえてくるのが常だったから。
だが、そうではなかった。
ある日――瞬がアンドロメダ島に送られて数年の時が経った ある日――瞬は、その事実を知った。
その日、瞬はいっそ死んでしまいたいと思い詰めて、夜の海に足を踏み入れたのである。
空には月も星も雲もなく、ただ漆黒の闇だけが広がっていた。
その闇だけの世界に、いつもの銀色の光が現われ、その光の中から、一人の人間の姿が浮かびあがってきたのだ。

銀色の甲冑のようなものを身にまとった若い男。
甲冑には、熾天使のそれのように幾対もの翼がついていた。
その男が、手を使わずに、腰まで海につかっていた瞬の身体を浜に引き戻す。
銀色の光に包まれた その男は、濡れた身体を氷点下の外気にさらされて震える瞬の顔を 不愉快そうに覗き込み、
『死を願っても無駄だ。死を司る神であるこの俺が、おまえの死を許さない』
と言った。

髪は銀色。瞳も銀色。
人間にはありえない色素を帯びた姿を持つ その男が神でも天使でもないことを、その時 瞬は直感したのである。
『死を司る神』と、当人に言われたばかりだったにもかかわらず。
神や天使にしては あまりにも――彼の表情には 人間への慈愛というものが感じられなかったのだ。
美しくはあるが、高貴ではない。

「死を司る神……? 僕を連れにきてくれたの?」
不審と希望が半分ずつ。
そんな気持ちで、瞬は彼に尋ねた。
が、彼の答えは、瞬の期待に沿うものではなかった。
それどころか彼は、あからさまに忌々しげに、そして高飛車に、
『おまえに死なれては困るのだ。おまえには、何があっても生きていてもらわなければならん』
と、瞬に向かって言葉を吐き出した。
「あなたは……誰」
『死を司る神だと言ったろう。おまえは耳が遠いのか? それとも、人の話を聞いた側から忘れていく馬鹿者か』

神が、こんな雑言で人間を蔑むはずがない――それとも神とはこういうものなのだろうか?
神は光そのもので、人間に無限の愛を注ぐもの――幼い頃、兄と共に身を寄せていた教会の神父に そう教えられてからずっと、瞬は神とはそういうものだと信じていた。
しかし、今 瞬の目の前で“神”を自称する者の言葉と声音から感じられるものは、死を願う者への苛立ちと侮蔑だけである。
自称神は、瞬の戸惑いなど意に介したふうもなく、彼の言葉を続けた。

『死んで楽になろうなどという、詰まらぬ了見は捨てろ。無駄だ。おまえがどんなに死を願っても、俺がその邪魔をする』
「ど……どうして……」
『おまえには生きていてもらわなければ困ると言ったろう。おまえに勝手に死なれても、おまえが誰かに倒されてしまっても困るのだ』

「困る……? なぜ?」
彼が『困る』理由を、“死を司る神”は瞬に教えてはくれなかった。
それは、教えられない事情があるというより、彼が瞬にそんなことを教える必要はないと思っているか、あるいは、瞬にその理由を教えることを面倒だと感じているから――のようだった。
彼は、親切な“神”――彼の自己申告が真実なら――ではないらしい。

いずれにしても、それ以降――瞬が“死にたくても死ねない人間”になってしまったのは事実だった。
誰も、瞬を傷付けることはできない。
倒すこともできない。
瞬があえて危険の中にその身をさらしても、その危険は自ら消滅し、瞬がわざと修行仲間の攻撃をその身に受けても、その傷はあっという間に癒えてしまう。
瞬が絶望の涙を流しても、その涙はすぐに乾くようになってしまったのである。

死神は瞬を守り続けた。
死神なら僕を殺してくれと、瞬は幾度も彼に頼んだが、銀色の姿をした死神は、瞬のその願いを叶えることは決してしなかった。
聖衣を巡っての修行仲間との最後の戦いも、その後に執り行なわれたサクリファイスの儀式も、瞬からその命を奪うことはできなかった。

「あなたが助けたの」
今の自分の力では 到底 乗り越えられるとは思っていなかったサクリファイス。
その儀式を終え、我が身をアンドロメダ座の聖衣で包まれることになった時、瞬は、どうせこれも死神の仕業と決めつけて、銀色の自称神に冷めた気持ちで尋ねてみたのである。
死神は、彼にしては珍しく侮蔑の響きのない声で、瞬の言を否定した。
『その必要はなかった。まさか本当におまえがアテナの聖闘士だったとは。ハーデス様はご存じだったのか――』
「ハーデス? それは誰?」
初めて聞く名――である。
もっとも、それを言うなら、既に数年の付き合いになるというのに、彼は彼自身の名をすら、瞬に教えてくれたことがなかったのだが。

銀色の自称神は、瞬が尋ねたことに、今日も答えてはくれなかった。
彼には、彼が『ウジ虫』と呼ぶ人間と会話を成り立たせようとする意欲が全くないのだ。
自分の言いたいことだけを、自分の好きなときに吐き出すだけ。
気まぐれで、瞬を含んだ すべての人間を見下していて、だが、瞬の命は守る死神。
彼がいつも身近にいることに、瞬は慣れてしまっていた。






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