『客人として遇する』という氷河の言葉は、決しておざなりのものではなかった。 管理人が一人常駐しているだけの館に、彼は瞬のために小間使いをひとり通わせるように手配してくれた。 おそらく、瞬の身の上のことなどを根堀り葉掘り尋ねるようなことはするなと言われているのだろう。 不自然なほどに口数の少ない その小間使いは、瞬の食事の支度や日々の細々したことを完璧にこなしてくれた。 エティオピアの王宮にいた時ほどではないにしろ、瞬は敵国の人間の館での暮らしに不便を感じることはほとんどなかった。 あの侵略行為で変化が生じなかったのは、エティオピア国内だけでなく、ヒュペルボレオイ国内も同様だったらしい。 領土の拡大や略奪、奴隷・労働力の獲得が目的でないのなら、だが、では、何のためにヒュペルボレオイの王はエティオピア王家の抹殺を図ったのか。 当座の居場所が定まると、瞬の中では今更ながらに、その疑念が頭をもたげてきたのである。 ヒュペルボレオイ王の所業は、エティオピア侵略というより、エティオピア王家に対する個人的な恨みを晴らす行為だったようにも思える。 しかし、瞬には、エティオピア王家がヒュペルボレオイ国の王に敵意を抱かせるようなことをした話は聞いたことがなかったし、実際に、あの突然のエティオピア侵攻の時まで両国の関係は至極良好だったのだ。 というより、両国は互いにほとんど干渉し合っていなかった。 政治向きのことには さほどつまびらかではなかったが、瞬はそう認識していた。 「なぜヒュペルボレオイはエティオピアに攻め込んできたの。正当な理由なく他国を侵略すれば その国は滅びるという神々の決めた定めを、ヒュペルボレオイの王は知らないの」 氷河の館での暮らしにも慣れた ある日、瞬は、いつものように瞬のいる館を訪れた氷河に尋ねてみたのである。 尋ねてから、瞬は背筋を凍りつかせた。 ヒュペルボレオイの国王は、ギリシャのすべての国に有効な神託に背き、正当な理由なく他国を侵略した。 神々の意思に背いた国を待っているのは、神々の怒り――滅亡だけである。 その時、この親切な人はどうなってしまうのか。 氷河までが兄のように、自らに非のないことで命を奪われてしまったら――。 その時には今度こそ自分は、生きていることにも この世界のありようにも絶望することになるだろうと、瞬は思ったのである。 しかし、瞬の懸念は意味のないものだったらしい。 氷河の答えは実に意外なもの――エティオピア王家の一員である瞬には、あまりにも思いがけないものだったのだ。 「エティオピア王家に巨大な邪悪が巣食っている――という、オリュンポスの神々の神託があったんだ。ヒュペルボレオイの王には、その邪悪を取り除く義務がある――とな。ヒュペルボレオイの国は神の意思という正当な理由があって、エティオピアに侵攻した。この国が神々によって滅ぼされることはない」 氷河は、そう答えたのだ。 「きょ……巨大な邪悪?」 「その邪悪な者を滅ぼさなければ世界が破滅すると、神々は言ったそうだ」 「そんなことあるはずない! エティオピアはいつも平和を望んでいた! だから軍も養わずにいたのに……!」 悲鳴にも似た瞬の訴えを聞いた氷河が、痛ましげに眉根を寄せる。 瞬には、自国の犯した罪を糊塗するために氷河が嘘をついているようには見えなかった。 だが、そんなことがあるはずがないのである。 少なくとも瞬は、兄がそんな野心を抱いていなかったことを、誰よりもよく知っていた。 「陛下は、猛々しい印象が強くて、実際に武略にも秀でてらしたけど、優しい方だった。僕の育てた花を、いつも綺麗だと褒めてくれた」 それまで ひたすら気遣わしげに瞬を見詰めているだけだった氷河の表情に、初めて険しい色が浮かぶ。 無理に不機嫌を抑えているような声で、彼は瞬に尋ねてきた。 「エティオピアの王――。おまえはその男が好きだったのか」 「当たりまえだよ!」 『好き』どころか! 兄は、瞬にとって ただ一人の家族、世界で最も強く深く愛し尊敬している人間だった。 その兄を、ヒュペルボレオイの王は殺したのだ。 瞬の即答に、氷河がぴくりと こめかみを引きつらせる。 それから彼は、いつもの彼らしくなく――瞬の知っている彼らしくなく――妙に意地の悪い口調で、瞬の兄を侮辱してきた。 「その男の優しさはただの仮面で――本当は花ではなく、おまえが目当てだったのではないか」 「な……何を言っているの! 僕は――僕は王様に目を留めてもらえるような身分の人間じゃない。僕はただの庭師で――」 瞬の主張は理のあるもののはずだった。 瞬の兄は、生まれで人の価値を計るようなことをする人間ではなかったが、エティオピアには確たる身分制度があった。 平民は王の前にかしずいたし、王は彼等に対して尊大に振舞った。 『これは秩序と平和を守るために必要なことなんだ』 と、エティオピア王は苦笑しながら、いつも瞬に言っていた。 一般的に、仮にも一国の王が一介の庭師に目を留めることはない。 それが人の世の常識と、瞬は承知していた。 氷河もその程度の常識は心得ているはずである。 瞬にそう言われても、氷河はまだ疑わしげだったが、彼はそれ以上 瞬を憶測で追い詰めることはしなかった。 軽く顎をしゃくり、視線を脇に流す。 「……エティオピアが軍を養っていなかったというのは事実だったようだな。王宮には 戦闘用の武器もなければ、実戦のために訓練された兵も皆無。ヒュペルボレオイ軍が攻め込んだ時、エティオピア側からは ほとんど抵抗らしい抵抗がなかったと聞いている。おかげで王族以外の者は傷付けずに済んだとか。おまえの家と“家族”は――本当に不運だったんだ。許してくれ。ヒュペルボレオイとヒュペルボレオイの王に代わって詫びを言う」 そう言って、氷河は瞬を抱きしめてくれた。 兄の死を『不運』の一言で片付けることはできない。 それは神の意思だったのだと言われても、瞬の悲しみは消えず、この理不尽を受け入れることもできない。 だが、氷河は無慈悲な神でもなければ、ヒュペルボレオイの王でもない。 氷河には何の責任もないのである。 氷河は瞬に対していつも優しく――瞬は氷河を責めることはできなかった。 |