氷河は、瞬に新しい花園をくれた。
といっても、死にかけた花園だったが。
瞬が住むことを許された館には、小さな花園――花園だったもの――があったのである。
彼の亡くなった母が生前愛した花園だった――と、彼は瞬に教えてくれた。
「この館は、俺の亡くなった母の実家で――母には男子の兄弟がいなかったし、俺は父の家を継ぐことになっていたから、母の死で家門は途絶えたんだ。この館だけを俺が受け継いだ。母が亡くなってからは放ったらかしにしていたんだが――生き返らせることができるか」
「あ……やってみます。やらせて……!」
復讐を諦めたわけではない。
神々の報復が期待できないのなら なおさら、この悲しみと怒りを消し去るのは人の手で――自分の手で為すしかないのだということはわかっている。

しかし、ヒュペルボレオイの王城はあまりに遠い。
ヒュペルボレオイの王自身も神の意思に従っただけだったというのでは、彼に何らかの報復をしたところで、復讐者の心は更に重くなるだけだろう。
何より、瞬は、人を憎むことに慣れていなかった。
その上、敵国で初めて知り合った人は優しく、瞬が失ったものを贖うための思い遣りを示してくれる。
復讐以外の何かを――たとえば、死にかけた花園を生き返らせることを――力の源にして生きていくことが自分にはできるのか。
瞬は、それを確かめてみたかったのである。


エティオピアの都から歩いて2日ほどの距離しか離れていないというのに、ヒュペルボレオイの都の気候は寒冷だった。
北風の神ボレアスは、ギリシャ世界の最北にある国に冷たい風を送り込み続けることが自らに課せられた最大の義務だとでもいうかのように、この国での仕事に熱心でいるらしい。
植物の成長には時間がかかり、それは蚯蚓が地を這うかのように緩やかなものだった。
だが、だからこそ、ヒュペルボレオイに来て半年後、氷河に預けられた花園の一画で 初めて雛菊が小さな花を咲かせた時の瞬の喜びは、一方ならぬものだったのである。

瞬が死にかけた花園の手入れを続けている間、氷河はほとんど毎日、時には日に幾度か、瞬と瞬の花園の様子を見にきてくれていた。
氷河はかなり多忙であるらしく、長時間 瞬と過ごすことはしてくれなかったのだが、その訪問が一日以上途切れることは一度もなかった。

「俺は、エティオピアの王と違って、花ではなく おまえが目当てだ」
ある日、氷河のそんな軽口に笑い返している自分に気付き、瞬は愕然としたのである。
兄を思い出さない日は一日とてなかったが、瞬の中の復讐の念はほとんど消えかけていた。
瞬が思い出すのは、罪なき兄の理不尽な死ではなく、兄と過ごした優しい時間の思い出ばかりになっていたのだ。
「10年以上打ち捨てられていた庭だったから、もう生き返ることはないかもしれないと思っていたのに――おまえは腕のいい庭師なんだな」
だが、瞬は――あるいは、だからこそ?――復讐の成功を夢想することよりも、氷河がそう言って、自分の育てた小さな花を優しい目で見詰めてくれることの方が数倍も嬉しかったのである。
兄に褒めてもらっているような気がして。

「僕の腕がいいわけじゃないよ。お花は、愛してあげると喜んで綺麗な花を咲かせてくれるの。この庭の花たちは今まで誰からも見捨てられていたんでしょう? この庭の花は、寂しくて――ちょっと縮こまっていただけ」
「……母を思い出すのがつらかったんだ」
「氷河……」

おそらくそうなのだろうと――死にかけた花園に向き合う日々の中で、瞬は察していた。
忘れようと努めながら、氷河は母を心から愛し求めているのだろう――と。
人の死――愛する者の死は――誰にとっても理不尽なものである。
しかし、氷河は、その死に復讐することはできない。
諦めようとして諦めきれず、忘れようとして忘れ去ることもできない。
その気持ちが、氷河に、この館を朽ちるに任せながら完全に見捨てることもさせなかったのだろう。
突然 この館に生きている者を迎え入れることになった時、その戸惑いは、迎え入れられた瞬当人よりも氷河の方が大きかったのかもしれない。
瞬は、そんな氷河のために、どうしてもこの花園を生き返らせたいと願って、毎日花と向き合ってきたのだ。

「ぼ……僕がエティオピアの王宮で世話をしていたのも、亡くなった前の王妃様の花園だったんだよ。僕は――エティオピアの王様は、お母様が優しくて美しかったことを確かめられるのが嬉しくて、僕の花園に来るんだっておっしゃってた。だから、あの……氷河も、無理に忘れようとか、忘れまいとするとか しない方がいいんじゃないかな。ここの花の中や氷河の中に、氷河のお母様は自然に生きているんだから」
「……」

それまで 多少は つらそうだったにしても、瞬には温かさばかりを感じさせていた氷河が、ふいにその身の周りに冷たい空気をまとう。
亡き母への氷河の思いがどのようなものなのかを教えてもらったわけでもないのに、憶測だけで彼の心の中に立ち入りすぎたのかと、瞬は自分の増長を後悔した。
「氷河……あの、ごめんなさい。か……勝手なこと言って――」
氷河を傷付けたり、悲しませたりはしたくない。
瞬はすぐに彼に謝ったのだが、瞬の謝罪は全く見当違いなものだったらしい。
氷河を黙り込ませたものは、彼の母への思いではなかったようだった。

「瞬。これ以上 俺にエティオピア王を憎ませないでくれ」
「え?」
「俺とエティオピア王を比較するな。みじめになる」
「ひ……比較なんて……。僕はただ、氷河に悲しい気持ちを持ってほしくなくて、だから――」
本当にそれだけだったのだ。
瞬にとって氷河は、兄とは全く違う意味を持つ存在だった。
死んでしまった人と生きている人。
弟を愛してはくれたが、何よりも王としての立場を第一義としていた“家族”と、少なくとも瞬の前では瞬ひとりだけを見詰めていてくれる“他人”。
そもそも瞬には、この二人の比較の仕方自体がわからなかったのである。

困惑と不安の色を帯びた瞬の瞳を見て、氷河はすぐにその表情をやわらげてくれた。
僅かに無理をしている様子は窺うことができたが、それでも微笑を浮かべ、氷河が瞬の肩を抱きしめてくる。
「おまえが美しいのは、おまえの心が優しいからだ」
氷河の唇が、瞬の髪と額とに触れる。
以前は、それがヒュペルボレオイの流儀なのだと流してしまうことのできていた氷河のそういう戯れに、瞬は、最近では困惑を覚えるようになってきていた。
正確には、彼に抱きしめられるたび、その瞳に見詰められるたび、落ち着かない気持ちになり、そんな自分にいたたまれなさを覚えるようになってきていた。

「家の中に戻ろ、氷河」
なるべく自然な振舞いに見えるように注意して、瞬は氷河の腕を さりげなくすり抜け、彼に館に戻ることを促した。






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