氷河の母の花園を見おろすことのできるバルコニー。
春が始まったばかりの北の国では、暖かい季節に浮かれているような陽光が、そこここで軽快に跳び撥ね舞っていた。
幸福で温かい花園の光景を眺めることで 騒ぐ心臓を落ち着けてから、瞬は氷河の方に向き直ったのである。
「それで、その巨大な邪悪は取り除かれたの。僕の国は元の平和な国に戻れるの」

無理に忘れようとすることも、決して忘れまいとすることも しない方がいい。
瞬が氷河に告げたその言葉は、最近 瞬が自分自身に言い聞かせている言葉でもあった。
兄が望んでいたのは復讐などではなく、彼の弟が“生きていること”だったではないか――と。

エティオピア王家がどうなるのか、いずれ 代わりの王家が勃興するのか、ヒュペルボレオイがエティオピアを自国に併合するのか、それは神々が決めることだろう。
一介の孤児の身ではヒュペルボレオイの国王に近付くことはできないし、神に復讐することはなおさら不可能なことである。
『生きろ』という兄の最期の言葉を叶えるために、瞬は、氷河と一緒にいたい――と願うようになってきていた。
氷河となら、愛する人を失った同じ痛みを互いに思い遣りながら生きていくこともできるだろう。
瞬は、そう考え始めて――強く願い始めて――いたのである。

「それが――事はそう簡単には治まらないようだ。ヒュペルボレオイ軍は、肝心の者を取り逃がしてしまったらしい。エティオピアの王家の血を引く男子はどんな傍系の者も神に捧げたが、『邪悪のものはまだ除かれていない。一刻も早く捕えよ』というのが神々の変わらぬ神託で――。歳若い姫が一人いたようなんだが、邪悪の者は男子だということだから――王は、他にエティオピア王家の血を引く私生児がいるのではないかと考えて、今 エティオピア国内をしらみつぶしに探させている」
「まだ除かれていない……?」

『歳若い姫』というのは、瞬のことだろう。
花ばかり愛でている瞬は、エティオピア王宮の者たちに 戯れにそう呼ばれていた。
おそらくは瞬の兄が、敵を撹乱し 瞬の逃亡を容易にするために、偽りの情報を敵に吹き込んだに違いなかった。

例の口数の少ない小間使いが、彼女の本来の主人のために飲み物を運んでくる。
部屋の中央にある円卓にグラスを置き、いつもより深く丁寧なお辞儀をした彼女が居間を出ていくと、震える声で瞬は氷河に尋ねた。
「邪悪のもの……って、エティオピア王家の血を引く男子の誰かなの」
「というのが、神々の神託だったらしい」

(僕……?)
他に、ヒュペルボレオイ軍の手に落ちていないエティオピア王家の男子はない。
兄、叔父、従弟、又従弟とその息子――瞬が思いつく限りのエティオピア王家の男子はすべてヒュペルボレオイ軍に捕らえられていた。
「ともかく、王家の血を引く男子がもう一人いることは確かだろうな。捜索しているんだが、一向に見付からない。その王子が見付かるまでは一件落着とはいかないだろう。その者は、この世界をすべて滅ぼすことができるほど強大な力を持つ邪悪だそうだから」

(そんな……)
瞬の頬からは血の気が引いていった。
肩と唇の震えているのが、自分でもわかる。
氷河に気付かれることを恐れて、瞬は再び視線を花園の方に向けた。
「恐がるな。大丈夫だ。邪悪はいずれ滅ぼされる。おまえは俺が永遠に守ってやるから。俺がいつも側にいる」
氷河が囁くようにそう言って、瞬の肩を抱き寄せる。
それでも、瞬の震えはおさまらなかった。

氷河の主君に神託をもたらした神が邪神だということはありえないだろうか。神にも判断を誤るということがあるのではないか――と、瞬は、まず神を疑うことをした。
そんなことがあるはずがないというのに。
だが、瞬は――もちろん瞬は自分自身を清廉潔白な人間だとは思っていなかったが――自分の内にそれほど大きな力が潜んでいるとは、なおさら思い難かったのである。

日々のささやかな幸福のために、あれほど敬愛していた兄の命を奪った者への復讐心さえ忘れかけているような意思の弱い人間に、世界を滅ぼしてしまうほど大きな力を養うことができるはずがない。
何よりもまず、瞬は、この世界の滅亡など望んでいなかった。
望むはずがない。
この世界は、氷河が生きている世界なのである。

神の真意がわからず混乱している瞬の横で、ふいに氷河が大きな溜め息をつく。
我にかえった瞬が、隣りに立つ人の顔を見上げると、そこには、非常にきまりの悪そうな表情を浮かべた氷河の青い瞳があった。
「ど……どうか?」
瞬が尋ねると、氷河はもう一つ、今度は小さな嘆息を洩らした。
そして、彼は、
「俺は、これでもおまえに恋を告白したつもりなんだが」
と、言った。

「……え?」
氷河の告白を上の空で聞いていた瞬は、慌てて、今 自分が氷河に告げられた言葉がどういうものだったのかを、頼りない記憶の中から引っ張り出してきたのである。
氷河の言う通り、それは確かに恋の告白になっていた。

「ぼ……僕は、氷河にそんなふうに思ってもらえるような人間じゃないよ」
「それを決めるのは、俺の心だろう」
「僕は何も持たない、ただの孤児だよ。身分も富も力も――家や家族すら持っていない」
「そんなものが恋をするのに必要か?」
必要ではない――と、エティオピアの王子だった頃の瞬ならば即答していただろう。
富も力も家も家族も持っている者なら、そう答えることができる。
しかし、今の瞬はそんなふうに恵まれた人間ではなかったのだ。

「僕が何も持たない人間だっていうことの意味がわかる? ここで僕が『僕も氷河が好き』って言ったら、それは氷河に『僕を守って』ってねだることになるの」
今更な気もした――のである。
瞬が今 住んでいる家、身に着けている服、毎日の食事――それらのものすべてを、瞬は氷河から“もらって”いた。
それどころか、氷河の訪れや花園の存在――生きるための喜びや楽しみまでも、瞬は氷河から与えられていたのだ。

「それは俺の望むところだ。俺におまえを守らせてくれ」
「僕は、それで氷河に何のお返しもできない。僕は、氷河に与えられるものは何も持っていない」
「その心を。俺を愛してくれ」
「氷河……そんなことできるわけがないでしょう」
「なぜだ」
瞬の両肩を掴み、氷河は恐いほど真剣な目をして、瞬を問い詰めてくる。
「なぜ……って……」
瞬は、答えに窮した。

『兄の命を奪った王にくみする者』ということだけなら、それは もしかしたら乗り越えられない障害ではなかったのかもしれない。
しかし、兄の死の真相を知ってしまった今、それはもう許されることではなくなってしまっていた。
エティオピア王家のただ一人の生き残りが尋常でない強さの邪悪な力を持つ者なのだとしたら、そんなものが氷河の側にいることは、彼の身を危険にさらすことになるではないか。
「だって、僕は、本当に無力でちっぽけな――」
「瞬。俺を苦しめないでくれ。おまえは、家や食い物のために、嫌いな男の側にいてくれたのか? そうではないと思っていた俺は、うぬぼれの過ぎる愚か者なのか」
「氷河……」

苦しんでほしくない――。
氷河が苦しんでいるのを見るのは、瞬には他のどんなことよりも つらいことだった。
いつのまにか、瞬は そう感じる人間になってしまっていた。
復讐のためにこの国の都に入り込んだはずなのに、ヒュペルボレオイの王のエティオピア侵攻は神託に従っただけのことだったと知らされたにしても、既に半年以上 何の行動も起こさず――王城に近付こうとすることすらせず、瞬は氷河の側でぬくぬくと平穏な暮らしを続けてきた。
氷河に見詰められ、氷河に触れられ、氷河に守られ、氷河のために花を育て、氷河の笑顔を見ていることが、瞬は嬉しく楽しく快かった。

自分が本当は何を望んでいるのか――が、瞬にはわかっていた。
認めたくはないが、わかっていた。
“瞬”という人間は、愛し愛されたいのだ。
瞬は、それだけを望んでいた。
人が生き続ける理由、生きていられる理由は他にはない。
その対象を奪われたから、死にたいと思った――人を憎むしかないと思った。
氷河に出会ってしまったから、今は生きたいと思う――彼を愛し愛されることを、瞬の心は望んでいた。

「でも、僕……僕は――」
自分の心と身体は、氷河の側にいることを望んでいる。
では、自分をためらわせるものは何なのか。
瞬には、その正体がわからなかった。
まさか、それもまた“愛”と呼ばれるものだなどとは、今の瞬にはまだわからなかったのである。

「俺が嫌いなのか」
「嫌いなら、こんなに苦しまない……!」
「なら、俺を好きだと言ってくれ。それだけで楽になれる」
「ああ……!」
苦渋と混乱の呻きであるはずの声が、既に甘い溜め息になっている。
「さあ、言うんだ」
氷河の唇が 瞬の唇に触れながら、正直になることを瞬に強いてくる。
氷河に抗しきるには あまりにも――瞬の唇は嘘をつくことに慣れていなかった。

「氷河……が、好き……」
氷河に求められた言葉を声にした途端、氷河の唇が瞬の唇を覆ってくる。
のけぞり倒れそうになった瞬の身体は、次の瞬間には氷河に抱きかかえられていた。






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