瞬が目を開けると、そこには氷河の青い瞳があって、彼はひどく嬉しそうな顔をして、瞬を見詰めていた。
瞬はいつも、彼の瞳の色は故国の夏の空の色に似ていると思っていたのだが、今日は その瞳がいつにも増して明るい。
四肢に力が入らず、氷河を受けとめた場所は まだ熱をもって痺れている。
氷河は、気を失っていた瞬の顔をずっと見詰めていたらしく、瞬が瞼を開けるとすぐに、瞬の額に唇を押し当ててきた。
「あ……の……」
「大丈夫か。もう痛くないか? それとも、もっとちゃんと痛くしてほしいか?」
「あ……」

何を言ったのかは はっきりと憶えていなかったが、子供のように泣き叫び、氷河に我儘を言った記憶だけはある。
だから、自分が氷河にからかわれているのだということだけは、瞬にもわかった。
瞬はこのまま消えてしまいたい気持ちになり、瞳に涙をにじませたのである。
ルールを知らないゲームに、予備知識もないまま参加させられたようなものだったのだから、少しくらいの失敗は許してくれてもいいではないか。
それをからかうなど、いじめっこ・・・・・のすることである。
氷河は、だが、大概のいじめっこがそうであるように、自分がひどいことをしているという自覚を全く抱いていないようだった。
瞬の涙に気付くと、彼は慌てて瞬の髪を撫でてきた。

「すまん。冗談だ。おまえが あまりに可愛かったから、つい浮かれてしまった。本当に大丈夫か。今なら俺は、おまえの望みならどんなことでも叶えてやるぞ」
これほど屈託なく、これほど はっきりした氷河の笑顔は初めて見る。
困惑し、少しどもりながら、瞬は氷河にささやかな反抗を試みた。
「な……何がそんなに――お……おかしいの……!」
「嬉しいだけだ。本当に、今なら俺は どんな邪悪にでも打ち勝てそうな気がする」

困惑に震えていたはずの瞬の背筋を、ふいにひどく冷たいものが通り過ぎていく。
身体を縮こまらせて、瞬は恐る恐る氷河に尋ねてみた。
「エティオピア王家に巣食っている邪悪……ってどんなものなの」
「ん?」
これは初めての愛の交歓のあとに持ち出す話題ではないと、氷河は思ったようだった。
ふさわしくない話題に氷河が応じてくれたのは、おそらく、彼の恋人は 自分がからかわれずに済む会話を求めているのだろうと、氷河が誤解したからだったろう。

瞬の乱れた髪を整え、無理を強いた瞬の身体をいたわるように愛撫しながら、氷河は、この場にそぐわない瞬の質問に答えてくれた。
「その巨大な邪悪は、とても美しいのだそうだ。清らかで――この地上で最も清らかな人間らしい」
「清らかな者が邪悪なの」
自分は無知ではあるが清らかではない。
自身にそう言い聞かせながら、瞬は氷河の瞳を見上げた。
氷河がその視線を嬉しそうに受けとめ、微笑する。

「清らかなだけの存在というものがどういうものなのかわかるか。その者は、些細な悪事や少しの汚れも許せない。自分と同じ清らかさを、当然のごとくに他人にも求める。だが、人は皆、多かれ少なかれ汚れているものだ。自身や家族のために些細な罪を犯すこともある。そんな罪や過ちを許せない清らかな人間は、結局すべての人間を殺さなければ理想の国を作れない。その男は、この世界を死の世界にするまで、人間を殺し続ける」
「まさか」
「罪も汚れも知らない清らかなだけの人間。それが邪悪でなくて何だというのだ」

僕は違う!
瞬は、そう叫びたかった。
そう叫んでしまえば、二人が二人でいられなくなってしまうことがわかっていたから、瞬はそうすることはできなかったが。

「神々は憂えている。その邪悪な者がまだ生きていること、生きて この世界にいることを。俺は、その邪悪な者を探し出し、滅ぼさなければならない」
いつのまにか氷河の瞳からは微笑が消えていた。
ひどく嫌な予感がして、瞬は一瞬 次の言葉をためらったのである。
だが、ここで尋ね返さないのは不自然だった。
だから、瞬は尋ねてしまったのである。
「なぜ氷河が」
――と。

氷河は、もしかしたら最初から、彼の思いが受け入れられた時には、瞬にその事実を打ち明けるつもりでいたのかもしれない。
一瞬間だけ緊張する素振りを見せてから、彼は短く、装ったようなさりげなさで、瞬にその事実を告げた。
「俺が、神々の神託を受けたヒュペルボレオイの王だからだ」
「え……」
瞬は、声と言葉を失った。

「と言っても、親政を始めたのはほんの半年前のことだがな。俺が成人するまでは、叔父がこの国の政治を見ていてくれた。成人して、やっと親政を始めた途端に、あの神託がくだったというわけだ。俺の王としての最初の仕事はエティオピア侵攻とその後始末で、俺は それ以外に王らしいことをまだ何一つしていない」
「……」
瞬は、自分が何を言われたのか わからなかったのである。
理解することを、瞬の心が拒んでいた。






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