ヒュペルボレオイの人間を受け入れることができたのであるから、瞬には その身分はどうでもいいことのはずだ――と、氷河は考えているようだった。 実際より高い身分を 「言わずにいて悪かった。俺は、だが、一人の男として おまえを好きになったし、身分も権力もない一人の男として、おまえに愛してほしかったんだ。いや、食べ物や家で おまえの気を引こうとしたのは事実かもしれないが、それはどんな身分の者でも――鳥や獣でもすることだろう?」 そんなことはどうでもいい。 だが、氷河自身がヒュペルボレオイの王だということは、瞬には“どうでもいいこと”ではなかった。 ヒュペルボレオイの王がすべての元凶で、だから氷河は兄の死に何の責任もないのだと思うことで、瞬は敵国の者を愛した自分を納得させていたのだ。 たとえ神の意思に従ってのこととはいえ、兄を殺した者に、身体ばかりか心まで奪われて、兄に何と言って許しを乞えばいいのか――。 「あ……あ……」 絶望の呻き――瞬の絶望の呻きを、氷河は ギリシャ世界で最も広大な国土と強大な力を持つ国の王に、一介の孤児が愛されたなら、気後れを感じ怯えるのも致し方のないこと。 彼は、瞬の悲嘆をその程度のものと解しているらしい。 それどころか、彼は、王の寵愛を受けたと知っても有頂天にならない瞬に、安堵や満足を覚えているようだった。 「そういう“清らか”な王が かつていて、実際に多くの者を正義と廉潔の名で次々に殺していったんだそうだ。彼は すべてを殺した。罪人も、法を犯したことのない大人も、いずれ醜い心を養うことになるだろうと言って、幼い子供や赤子まで。自国の民だけでは足りなくて、他国にも侵略の手を伸ばし、殺戮を重ねた。二百数十年前のことだ。ギリシャ全土が争乱の巷と化した。その生まれ変わりが、神々の言うエティオピアの問題の王子らしい」 清らかな心、私欲の全くない心、崇高な理想がその王を狂わせたのだ――と、氷河は嘆息と共に瞬に告げた。 自分がその王の生まれ変わりだということを、瞬はどうしても信じることができなかった。 少なくとも瞬は、その王の為したことに全く共感できない。 その王は正義と廉潔の士ではないと、瞬は断言することができた。 「その王が清らかだなんて嘘。なぜその王は最初に自分を殺さなかったんだろう。彼は、自分に醜さや悪心は全くないと本当に思っていたんだろうか……」 兄を失った時、瞬は一時は、兄の命を奪った国を憎んだ――その国のすべてを憎んだ。 その憎悪の対象の大半は、兄の死に直接関わりのないものだったろう。 だが、憎かった。 ヒュペルボレオイの王に復讐することさえ考えた。 ヒュペルボレオイの王に罪はないと知ってからも、瞬はヒュペルボレオイの王を恨んでいた。 彼が、神よりも憎みやすい存在だったから。 そんな理不尽な憎悪に囚われ、実際に復讐する段になると、乗り越えることが不可能ではない程度の障害で、早々に目的の遂行を諦める怠惰と意思の弱さ。 こんな自分が、そんなにも苛烈な王の生まれ変わりであるはずがない。 たとえそうだったとしても、自分は大きな過ちを犯した前世を正しく生き直すために現世に生まれ変わってきたのかもしれないではないか。 なぜ今、なぜ自分なのか、そして、なぜ神々の神託を受けた者が氷河だったのか。 瞬は、この運命を定めた神に問い質したかった。 「神々はどうして――その王の生まれ変わりの抹殺を、エティオピアや他の国の王ではなく、氷河に命じたの」 「その王は、俺の祖先に当たる男なんだ。このヒュペルボレオイの国は建国から二百数十年と言われているが、本当はエティオピアより古く、五百年以上の歴史を持つ国だ。この国は一度滅びたんだ。その王のせいで。一人生き残った王子が父王を殺し、新しいヒュペルボレオイの国を建てた。神々の慈悲と助力を得て。神々は、その慈悲への返礼を、今になって 彼の遠い子孫である俺に求めたということなのかもしれないな」 「……」 神々は、それなりの因果を考慮して、人間たちの運命を定めているらしい。 では、邪悪のものがヒュペルボレオイの王に恋することも、初めから定められていたことなのだろうか。 そして、人は諾々と定められた運命の通りに生きるしかないのだろうか。 だとしたら なぜ、人はこの世に生まれてくるのだろう。 神々は、定められた筋書き通りにゲームの駒が動くのを楽しんでいるのだろうか。 だとしたら なぜ、元始の神は、心を持つものとして人間を創造したのか。 何より瞬は、人は運命に逆らう力を有しているのかどうかということを知りたかった。 その答えに辿り着くためには、与えられた生を生きてみるしかない。 他に、今の瞬にできることはなかった。 |