「おまえを、こんなに警備の薄いところに置いておくことはできない。王城に来てくれ」
あまりに遠くて、無力な孤児には辿り着けないと思えたから、復讐を諦めることのできたヒュペルボレオイの王城。
そこに来てくれと氷河は言う。
運命に逆らうために、瞬は首を横に振った。

「僕は、僕の花の側にいたい」
「離れていると、ふいにおまえが消えてしまいそうで恐いんだ」
「でも、僕は――」
「花の世話には、代わりの者をよこす。決して枯らしたりはしない。今の俺には、死んでしまった人の思い出より、生きているおまえの方が大事なんだ。俺は生きているから」
氷河にそんな気持ちを抱かせたものも、神が定めた運命なのだろうか。
そして、そんな氷河に逆らえない心を瞬の中に据えたものもまた、神の定めた運命なのか――。

結局瞬は、仰々しい警備の兵に守られて、一介の孤児には遠すぎる場所だったヒュペルボレオイの王城に入ることになった。
ヒュペルボレオイの都の治安は安定しており、瞬の移動に警備の必要などなかったのだが、『王にとっておまえがどれほど大切な存在であるかを周知させるためには、こんな仰々しい警備も必要なんだ』というのが氷河の主張だった。
もちろん瞬は、氷河に――運命に――逆らえない。
どうすれば人は運命に抗うことができるのか――それだけを考え、心を沈ませたまま、瞬は、遠い場所から仰ぎ見ることしかできなかった高い塔のあるヒュペルボレオイの城に入ったのだった。


さすがはギリシャ世界で一、二を争う大国の王城。
その城の壮麗さは、家庭的でさえあったエティオピアの王宮とは比べものにならなかった。
この城の主に愛されたなら、大抵の者は自身の幸運に有頂天になるのだろうと、瞬は悲しく思わないわけにはいかなかったのである。

その王城で、瞬は、王の愛人としての役目を完璧に果たした。
政治向きのことには一切目を向けず、口も挟まず、王に国庫から必要以上の金を出させることもしない。
瞬が能動的に何事かを為すのは氷河に同衾を求められた時だけで、瞬は、氷河の家臣たちに『成り上がりにしては欲のない模範的な愛人』という評価を受けることになったのである。
それは、エティオピアの王子だった身の瞬には屈辱的な評価といっていいものだった。
だが、瞬は、周囲の者たちが自分をどう評そうと、そんなことはどうでもよかったのである。

氷河が捕えたエティオピア王家の者たちにはすべて、『問題の人物ではない』という神の裁定が下ったらしかった。
もう一人・・王子がいて、その王子こそが邪悪のものだと、神々は言ったらしい。
つまり、問題の人物は、ヒュペルボレオイ軍のエティオピア侵攻の際、ただ一人逃げおおせた王弟――瞬――ということになる。

運命に逆らう力が、もし人間には持ち得ないものなのだとしたら、おそらく、氷河と二人きりで過ごすことのできる幸福な時はまもなく終わる。
だから、瞬は、ヒュペルボレオイ王の愛人としての務めに傾倒しないわけにはいかなかったのだ。
氷河に求められるまま、瞬は彼を受け入れた。
受け入れるどころか、自分から求めさえした。

「氷河、もっと」
それが、瞬の口癖になっていた。
そして、瞬を王城に迎え入れた頃には、心より先を走る肉体に抗い切れずに瞬を貪っていた氷河の口癖が、
「瞬、俺のためなら無理をしなくていいんだ」
になってしまっていた。

その口癖を唇の端に乗せた氷河にしがみつき、瞬が首を横に振る。
「無理なんかしてない。僕はずっとこうしていたいの」
「あまり自分の身体を過信するな。おまえの身体は、おまえが思っているより はるかに繊細だ。明日もちゃんとおまえのところに来るから」
「明日まで待てない。明日なんてこないかもしれない。いや……いや、もっと」

恋も知らぬげだった瞬の急激な変貌に、氷河は当初は奇異の念を抱いていたようだった。
しかし、やがて彼は、花園を手放さざるを得なくなったことの埋め合わせを瞬は求めているのだと解するようになったらしい。
二人の望みが合致しているのなら、その望みを自ら叶わぬものにすることもないだろう――と。
熱愛している恋人に熱烈に求められることを喜ばない恋人はいない。
王でも平民でも奴隷でも、それが喜びであることに変わりはないのだ。

だが、瞬が氷河を求め続ける理由は他にあった。
ヒュペルボレオイの王城に来て、瞬は、兄が生きていることを知ったのである。
兄以外のエティオピア王家の男子が 生きて帰国を許されたこと、兄だけが、ヒュペルボレオイの王宮内に留め置かれていることを。

瞬にその事実を知らせてくれたのは、氷河が瞬の許に通わせていた、あの口数の少ない小間使いだった。
彼女は口数が少ないどころか、実は相当のお喋りで、氷河の母親の実家の館内で彼女の口が重かったのは、彼女をあの館に遣わした人物が、その本当の身分を彼女に固く口止めしていたせいだったらしい。

その枷がなくなると、彼女は途端に口数が多く、口の軽い少女に変身した。
王城でも継続して瞬に仕えることになった彼女は、自分が 王の初めての愛人に最初に仕えた者として、仲間内で大きな顔ができていると、そんなことまで得意げに瞬に語ってくれた。
彼女には、氷河が瞬を愛するために くしゃくしゃに乱したシーツの片付け仕事をすることすら、仕事仲間たちへの自慢の種であるらしい。

あけすけな彼女のお喋りが、瞬は恥ずかしくてならなかったのだが、彼女が有益な情報源であることは事実だった。
瞬の恋人の正体が白日のものとなった今、もはや隠しておかなければならないことは何もないと言わんばかりの勢いで、彼女は多くの情報を――問われもしないことまで――瞬にもたらしてくれたのである。
彼女の口から、瞬は、兄の生存の事実を知らされたのだった。

「陛下は、半年以上お城に軟禁していたエティオピアの王様を、ついに処刑することにしたようですよ。これまでは、罪を犯していない者を処刑することをためらっていらしたようなんですけど、神が除けと命じた邪悪の者が処刑されれば、国民は安心するでしょう。瞬様がお城にお入りになってすぐ、ヒュペルボレオイとエティオピアの都に布告が出されたんです。エティオピアの王様は、明日の夜、都の北のはずれにある処刑場の近くの牢に城中から移送されて、明後日 そこで公開処刑されるそうですよ」

「公開処刑……って、エティオピアの王が生きているの……?」
瞬の驚愕は、尋常のものではなかった。
そして、その驚きが純粋な喜びではないことに、そんな自分自身に、瞬は驚愕した。
同時に、瞬は理解したのである。
氷河が、大切な母の花園から引き離すことまでして、瞬を王城に入れた訳を。
エティオピアの民であった瞬にエティオピア王の処刑を知らせないために、氷河は、瞬を王宮に閉じ込め、外界の出来事から完全に遮断しようとしたのだ。

兄の生存の事実で、瞬はすべてを悟ったのである。
自分に与えられた運命がどういうものであるのかを。
今のこの幸福は、神の手によって断ち切られるのではなく、邪悪のものが自らの手で断ち切らなければならない。
それが自分に定められた宿命なのだということを、瞬は血を吐く思いで理解した。

エティオピア王を処刑場に移送する夜、氷河は瞬の寝室にやってこなかった。
晴れがましいとは言い難い その仕事の指揮を氷河自らがとることは考えにくい。
彼は、瞬の前にエティオピア王の処刑を決定した者として顔を出したくなかったのかもしれないし、あるいは、自分が瞬に迂闊なことを言ってしまうことを危惧したのかもしれない。
いずれにしても、氷河の不在は、エティオピア王の弟には好都合なことだった。

その夜。
瞬は、あえて手足が剥き出しになる白く薄い夜着を一枚身に着けただけの格好で、ヒュペルボレオイの王城の北門に向かい、そこでエティオピアの王がやってくるのを待ったのである。






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