「止まって」 処刑囚を移送する兵は20名ほど。 そのうちの半分が騎乗していた。 残りの半数は歩兵で、エティオピアの王を乗せた馬の周囲を固めている。 彼等が王宮の北門を出る直前に、瞬はその一団の行く手を自らの身で遮った。 「何者だ」 「僕」 「僕? そんな名乗りがあるか!」 大声で瞬を 居丈高に瞬を怒鳴りつけた中年の男は、たいまつで明るく照らされている門の前に立つ軽装の子供が何者なのか、すぐに気付いたらしい。 そのために、瞬はあえて、いかにも王の愛人らしく見えるこの衣装を身に着けてきたのだ。 気付いてもらえなくては困る。 門の前に立つ人物が王に熱愛されている愛人だということに気付いた男は、すぐに彼が乗っていた馬から飛び降りた。 「それ、エティオピアの王様なんでしょう? 氷河は、処刑の前に僕をエティオピアの王様に会わせてくれるって約束したの。なのに僕に内緒でこんなこと……! 約束を破った氷河はあとでうんと叱っておくけど、僕にその人の顔を見せて。僕、一度、氷河以外の王様の顔を近くで見てみたかったの」 「し……しかし……」 「見せて。氷河は自分より綺麗な国王は、このギリシャ世界にはいないって豪語してたの。ほんとかどうか確かめなきゃ」 「陛下は確かな事実をおっしゃっていると思いますが……」 「それはもちろん、僕だって、僕の氷河がいちばん綺麗だって信じてるけど」 わざと拗ねた子供のような口調でそう言いながら、瞬は処刑囚を乗せている馬の方に歩み寄っていった。 兵たちがたいまつを掲げて、囚人の姿が瞬の目に入りやすくしてくれる。 (ああ……!) 葦毛の馬に乗せられている囚人は、確かに瞬の兄だった。 両手を麻縄で縛められてはいたが、服装は一国の王として恥ずかしくないもので、捕囚の間にヒュペルボレオイの者たちに痛めつけられた形跡もなければ、やつれてもいない。 氷河は罪のない国王を、その身分にふさわしく遇してくれていたようだった。 安堵のあまり、瞬の瞳からは涙が零れ落ちそうになったのである。 逆に、馬上の兄の方が、到底一国の王子のそれとは思えない、肌も露わな薄布を一枚まとっただけの弟の姿に驚き、瞳を見開いていた。 北の門は既に開いていた。 兄が乗っている馬は健脚そうである。 瞬はその馬に近寄り、 兄ならうまくやるだろう。 「逃げて」 瞬がそう囁くのと、 「瞬、これは罠だ」 瞬の兄が低く呻くのが、ほぼ同時だった。 瞬の兄が見せた驚きは、瞬の身に着けている衣装ではなく、瞬がこの場に現れたこと自体に向けられたものだったのだ。 「え……?」 「なぜ おまえがここにいるんだ……!」 悲痛な兄の声。 兄だけを見詰めていた視線を周囲に巡らせた瞬は、エティオピア王の移送のために配備された兵が10や20ではなかったことを、そうして初めて知ったのである。 数百の兵が、ヒュペルボレオイの王城の庭の周囲を取り囲んでいる。 そして、彼等の指揮をとっているのは、他ならぬ氷河その人だった。 「瞬……なぜだ」 漆黒の――青鹿毛馬の馬上から、陽光の色の髪をした氷河が尋ねてくる。短く、震える声で。 『なぜ』と、なぜ氷河が問うのか。 それは、瞬こそが氷河に尋ねたいことだった。 エティオピア王の処刑など不必要なことを、誰よりもよく承知しているはずの氷河がなぜ――と。 「氷河が除かなければならない邪悪のものは他にいるんでしょう。どうして王を処刑する必要があるの。その必要はないはず。罪のない者の命を奪うことは、神の意思にだって背くことでしょう!」 瞬の訴えに、だが、馬上の氷河は縦にとも横にともなく首を振った。 「処刑するつもりはなかった。エティオピア王の移送と公開処刑の布告は、邪悪のものをおびき出すための罠だ」 「あ……」 「処刑するつもりはなかった。こんな危険を犯して、おまえがこの男を救い出そうとするまでは」 「氷河……」 「おまえに慕われている男。妬いてはいたが、憎んではいなかった。だが……」 苦しそうに、氷河はその顔を歪めた。 そして、 「これが ただの忠誠心とは思えない」 絞り出すような呻きが続く。 「瞬を捕えろ。エティオピア王の公開処刑は予定通り執り行なうが、処刑場への移送は夜が明けてから行なうことにする」 氷河はヒュペルボレオイの王である。 彼は、彼の兵たちにそう命令しないわけにはいかなかったろう。 瞬は、王の命令に背いた反逆者なのだ。 「氷河……」 結局 自分はこの優しい人を傷付け苦しめることしかできないのだと思うと――それは兄を救い出すことを決意した時から覚悟していたことだったのだが――瞬の胸は痛んだ。 馬の足で数歩。氷河が、両脇を兵に押さえられた瞬の前に漆黒の馬を進めてくる。 だが、触れ合うことが可能なところまで近付くことはせず――おそらく、氷河はそれ以上瞬に近付くことができなかったのだ――馬上から、氷河は、怒りよりも悲痛の響きの強い声で、瞬に尋ねてきた。 「俺より、その男の方が大事か」 「氷河……!」 その時、瞬は ここで氷河に殺されることを覚悟した――決めたのである。 ここで邪悪のものが死ねば、それで神の意思も叶えられ、氷河と氷河の国はオリュンポスの神々の神託を遂行したことになる。 自分がいなくなれば、氷河は兄を憎む必要もなくなる。 邪悪のものとして刑吏に処刑されるより、氷河の中に少しでも愛情が残っているうちに、彼の手で殺される方が よほど幸福な死に方だと、瞬は思った。 だから瞬は、自身の心を懸命に冷たく凍りつかせ、馬上の氷河に言い放ったのである。 「当たりまえでしょう。陛下は僕の故国の王なんだから」 恋したのは氷河だけだと告げる代わりに、瞬はそう言った。 涙がとまらない。 こんなに好きな人に、なぜこんな悲しい言葉を投げつけなければならないのか――瞬は、氷河の剣力など借りなくても、その苦しみだけで自らの鼓動を止めてしまえるのではないかと思えるほどの痛みを、その胸に感じていた。 ここで自分はエティオピア国王の弟だと名乗れば、兄は助かり、氷河の妬心や憎しみは氷解するかもしれない。 だが、そうなれば氷河は、神の意思に従って瞬を邪悪なものとして“処刑”しなければならなくなる。 どちらの方が氷河の立場を悪くすることになるのか、それは考えるまでもないことだった。 「殺せ! その男を殺せ!」 氷河が瞬の兄を指し示し、彼の兵たちに命じる。 氷河の怒りが思わぬ方向に向かい始めていることに、瞬はひどく慌てた。 彼が殺さなければならないのは、エティオピアの王ではなく、邪悪で冷酷な王の生まれ変わりの人間のはずだった。 王の愛人のなめらかな肌を無骨な手で強く掴みあげることができずにいた歩兵の手を振り払い、瞬が兄の乗せられている馬の側に駆け寄る。 「 瞬のその言葉に、ヒュペルボレオイの兵たちがひるむ。 瞬はまっすぐに氷河を見詰めながら、なぜ瞬が兄を『陛下』と呼ぶのか不審に思っているらしい兄に、小声で告げた。 「僕が死ねば、神々は満足し、兄さんはエティオピアの王に戻れるでしょう。エティオピアの国璽はシュルティスの荘園の狩猟小屋の地下に埋めてあります。氷河は、エティオピアを侵略しようとか、エティオピア王家を滅ぼそうとしているわけではないの。氷河が殺さなければならないのは僕ひとりだけ」 「瞬、何を言っている」 「首切り役人か神官なのかは知らないけど、僕はそんな人たちに邪悪なものとして処刑なんかされたくない。僕は今ここで、氷河の手で殺されたいの……!」 そのためには、氷河に憎まれなければならない。 氷河の愛情を憎悪に変えなければならない。 氷河のために――二人の恋のために――瞬は、それをした。 「陛下を殺したら僕が許さない。絶対に絶対に、たとえ 「……!」 音がしそうなほどきつく歯噛みをした氷河が、騎乗していた馬から下馬する。 その手には剣が握られていた。 敵国の王を庇い続ける瞬の側に、氷河がゆっくりと歩み寄ってくる。 彼は、懸命に、冷静になろうと努めているようだった。 だから無理にその歩みを緩やかなものにしている。 だが、そんなことくらいでは、彼の怒りは消えそうにない。 瞬は、そんな氷河の姿を、ほとんど息を止めて見詰めていた。 王を裏切った恋人として、彼は瞬を殺すだろう。 これが“瞬”という人間に神が与えた運命だというのなら、瞬は神に感謝したかった。 エティオピアが平和な国であり続けたなら、瞬はこれほど愛する人に巡り会うことはできなかったのだ。 この人に殺されるのなら本望と思えるほどの人との恋も知らないままだった。 |