(瞬……) 運命を受け入れる覚悟をした瞬の心は既に凪いでいたが、氷河の心はそうはいかなかった。 涙をためて 切なげに氷河を見詰める瞬の瞳――間近で見る瞬の瞳は、憎しみの色を全く帯びていなかった。 激しい怒りに淀んだ目で見ても、氷河は、自分がこの瞳の持ち主に愛されているとしか思えなかったのである。 うぬぼれや みじめな願望が自分の目を曇らせているのだとしても、瞬の瞳は澄んでいて、そして、その恋人を愛しているようにしか見えないのだ。 「どんなに憎くても、殺せるわけがないだろう」 「氷河……」 「おまえが死にたがっても、俺にはおまえを殺すことはできない」 「氷河……氷河、殺さなきゃだめなの。氷河は僕を殺さなきゃならないのっ」 「そんなことができるかっ!」 氷河が怒声をぶつけた相手は、二人の運命だったのか、その運命を定めた神だったのか。 いずれにしても、その怒りは瞬に向けられたものではなかった。 氷河は、絶望に囚われ呆然としているような瞬を抱きしめ、その唇を自らの唇で覆った。 「きっ……貴様っ、弟に何をするっ!」 ヒュペルボレオイの王の所業に仰天し、全身から怒りを発したのは、今度は瞬の兄だった。 あろうことか彼は、馬上から その足で、弟を抱きしめている一国の王の肩を蹴りつけたのである。 キスの続行が不可能になった氷河は、瞬の兄の言葉に虚を衝かれたような顔になった。 「お……弟?」 「兄さん、言わないでっ!」 氷河が殺さなければならないものが、彼を愛していると知ったなら、苦しむことになるのは氷河である。 それでなくても瞬を殺すことはできないと言い張る氷河の胸中から妬心が消えてしまったら、なおさら氷河は彼の恋人を殺すことができなくなるだろう。 そうして神々の下した神託に氷河が背くことになったら、神々の怒りが氷河の上に降りかかってくることは必定。 それだけは――瞬は、何としてもその事態だけは回避しなければならなかったのだ。 「兄……恋人ではないのか? 全く似ていないぞ……?」 瞬の懊悩も知らず、氷河が呑気なことを呟いている。 瞬は、視界が真の闇に覆われてしまったような錯覚に襲われたのである。 立っていることができなくなり、その場に力なく崩れ落ちる。 「氷河は僕を殺さなきゃならないの……」 瞬の悲嘆の訳を、氷河はまるで理解していないようだった。 エティオピアの王と瞬が 「おまえは何を馬鹿なことを言っているんだ。たとえオリュンポスの神々が皆、俺にそう命じたとしても、俺はその命令を拒むぞ」 「氷河……!」 氷河には、彼が彼の恋人に愛されていないことこそが、最大の不幸であり絶望だったらしい。 その不幸と絶望が消え失せると、彼はいつもの――強引で我儘な恋人に戻ってしまっていた。 だが、瞬は、氷河のように楽観的にはなれなかったのである。 「氷河……!」 氷河の分の不幸と絶望を我が身に引き受けることになった瞬の悲痛な声が、夜明けの遠い北の国の王城の庭に響く。 その瞬間に、北国の夜が明けた。 |