睦月だろうが師走だろうが、時は同じ速さで過ぎ去り、昨日も今日も一日は24時間、同じだけの時間で構成されている。
ある一定の時間を短いと感じるか長いと感じるか、時の過ぎ行くスピードを速いと感じるか遅いと感じるかは、結局は、その時の流れの中に身を置く人間の主観が決めることなのである。

『日ペンのボールペン習字の師範の資格を取得する』などという無体な目標を押しつけられた その日を、氷河の主観はいつもより長いと感じていた。
その長い一日もやっと終わりかけた時刻。
氷河は自室に一人の賓客を迎え入れることになったのである。

「氷河、お願いがあるんだけど」
あと十数分で今日が終わるという頃に、そう言って氷河の前に姿を現わしたのは、他でもないアンドロメダ座の聖闘士。
アテナにあえなく却下されはしたものの、氷河が『今年中に俺のものにする』とぶちあげた目標の目的格に当たる人物だった。

「何かあったのか? どうしたんだ、こんな遅くに」
――と尋ねる言葉を、『遅かったじゃないか。早くこっちに来い』にしたい。
アテナに一蹴された氷河の目標は、つまりそういうものだった。
そのセリフを言えるようになるためになら、どんな試練も苦難も乗り越えようと思うし、乗り越えられると思う。
そう考えて設定した目標が、いつのまにか『日ペンのボールペン習字の師範の資格を取得する』に変えられてしまったのだ。
理不尽かつ不可解としか言いようのない この現実に、氷河はめげかけていたところだった。

いずれにしても――『何かあったのか? どうしたんだ、こんな遅くに』でも『遅かったじゃないか。早くこっちに来い』でも――瞬と二人きりでいられることは嬉しい。
氷河はもちろん、瞬の真夜中の訪問を快く受け入れたのである。
「どうかしたのか? お願いとは何だ」
『今すぐ僕を押し倒して』という“お願い”なら いくらでもきいてやるぞと、あり得ない事態を妄想しつつ、氷河は瞬を彼の部屋の中に招き入れた。

無論、考えるまでもなく、それはあり得ないことだった。
『この地上で最も清らか』が売りの瞬が、そんなことを言ってくるはずがない。
氷河は、現実と妄想の区別がつかないほど危ない男では(まだ)なかったし、現実の厳しさも十二分に承知していた。
だが、事実は小説より奇なり。
それどころか、“瞬のお願い”は氷河の妄想より“奇”だったのである。

伏し目がちな眼差し、どちらかといえば控えめで、どことなく恥じらいと切なさをたたえた表情。
ものやわらかな仕草と、ためらいを感じさせる唇。
いつもと変わらない様子の瞬は、いつもと変わらない所作で氷河の前に立ち、いつもと同じように遠慮がちな瞳で氷河を見上げ、なんと、
「氷河、僕にセックスの仕方を教えて」
と言ってきたのだ。

「――」
氷河がその場で卒倒してしまわなかったのは、ほぼ奇跡といっていいことだったろう。
氷河はかろうじて卒倒せずに済んだ。
しかし、氷河は、決して 瞬の“お願い”に驚かなかったわけではない。
彼は、文字通り震天動地――天地が震動していると感じるほどの驚きに襲われた。
その驚きが大きすぎて、氷河は声も言葉も失ってしまっただけだったのである。
驚きのあまり、氷河は瞬の“お願い”に何らかの反応を示すことすら――驚きの表情を作ることすら――できなかった。

瞬は、氷河のその無反応に戸惑い、そして不安を覚えたらしい。
「じょ……女性には頼めないでしょ、こんなこと。でも、マスターしなきゃならないんだ。僕の今年の目標達成に必要なの」
と、弁解がましい言葉を重ねた瞬は、それでも無反応でいる氷河に、最後には泣きそうな目を向けてきた。

(あ……)
いったいこの世界で何が起こっているのかを確かめなければならない――と考えられるようになるまでに、氷河はかなりの時間を要した。
不自然なほど長い間をおいてから、からからに渇いた喉の奥から、なんとか声を絞り出す。

「お……おまえ、好きな奴がいるのか」
「……うん」
「……」
衝撃が大きすぎて、もはや驚くこともできない。
氷河は、頭がぐらぐらしてきた。

瞬の好きな相手――それが男ならすぐさま殺しに行く。
しかし、もし瞬の好きな相手が女だったなら――瞬の恋人が女性であったなら、彼女と氷河は そもそも立つ土俵が違い、どう考えても、その女性は氷河には“勝てない相手”だった。
そして、『俺の恋の邪魔になるから』という理由で その女性を排除しても、氷河は決してその女性の代わりにはなれないのである。

『瞬を俺のものにする』――その目標を、自分はなぜ去年の目標にしなかったのか。
なぜ 瞬が恋を知る前に その目標を立て、目標実現のために努めることをしなかったのか。
氷河は、己れの悠長さを深く悔やんだ。
1年前なら――半年まえなら――3ヶ月前なら――もしかしたら まだ間に合っていたかもしれないのに! と。
だが、今ではもう遅すぎるのだ。

「氷河、やり方、知らないの?」
声と言葉を再び失っていた氷河に、瞬が不安そうに尋ねてくる。
「……知らないわけではないが」
そう答えるだけでも、氷河の喉と心臓は 苦痛に呻かずにはいられなかった。
「僕に教えるのはいや?」

「……」
教えるのがいやなのではない。
それどころか、今日の宵の口までは、そうできたらどんなにいいかと熱望さえしていた。
だが、こんなふうにではないのだ。
瞬の好きな誰かのために 瞬にそれを教えるなど、絶対にできることではない。
そんな みじめな、そんな無様な、そんな苦しく悲しいことなど、できるはずがない。
氷河にもプライドというものがあり、そして、心というものがあったのだ。

『それはできないことなのだ』という返答を、氷河は言葉にして瞬に告げたわけではなかった。
だが、氷河の辿り着いた答えを、瞬は敏感に察知したらしい。
それ以上 食い下がることはせずに――瞬は顔を俯かせた。
「ごめんなさい。急に変なこと言って。忘れて」

瞬が、その無理無体な“お願い”をどうやら諦めてくれたらしいことに氷河が安堵できたのは一瞬間だけのことだった。
安堵を安堵と認識する間もなく、氷河は、ある不吉な可能性に思い至ることになったのである。
すなわち、『白鳥座の聖闘士がそれを教えてくれないのなら、別の誰かに教えてもらおう』という考えを瞬は抱くのではないか――という。
氷河は慌てて、仲間の部屋を出ていこうとしている瞬を引き止めた。

「瞬! 教えないとは言っていない」
「え?」
「教えないとは言っていない。ただ、その……それを俺がおまえに教えていいものかどうか、今ここで結論は出せないというだけのことだ。おまえもよく考えろ。おまえが真面目に考えて、時間をかけて真剣に考えて、その上で、もしどうしても それを誰かに教えてもらわなければならないという結論に至ったら、その時は俺が教えてやる。だから、絶対に他の奴には頼むんじゃないぞ、こんなこと」

「あの……」
瞬は、仲間の言葉をその場しのぎのものと疑ったのかもしれなかった。
瞬が無言で氷河の瞳を見上げる。そして、見詰める。
当然 氷河は瞬を見おろす格好で、瞬の瞳を見詰め返すことになった。
瞬の瞳には、軽々しさなど全くたたえられていなかった。
瞬は軽い気持ちでここに来たのではない。
瞬の瞳は思い詰めたように熱っぽく切なげで、瞬の恋は既に幼い恋の域を通り過ぎたあとなのだということが、氷河にも見てとれた。

気付きたくなかったし、知りたくもなかったが、瞬の恋が真剣なものであることを、氷河は認めないわけにはいかなかったのである。
瞬が誰かに恋をしたというのなら、瞬は一生 その心を変えることはしないだろう。
瞬の一途と健気を知っている氷河は、絶望的な気持ちで、瞬の恋を見詰めることになったのである。

「うん……」
瞬が小さく頷いて、仲間の部屋を出ていく。
瞬が閉じたドアの音は、氷河の耳の奥でいつまでも木霊し続けることになった。


瞬に好きな相手がいる――。
自分が恋した相手が、他の誰かに恋をしているのではないかという懸念は、恋に落ちた人間が、恋の最も初期の段階で考えなければならないことだろう。
だが、氷河は、どういうわけか、これまで ただの一度もそんな心配をしたことがなかった。
“地上で最も清らか”という瞬のキャッチフレーズに油断していたせいもあったかもしれないが、それは、何よりもまず、彼が自分の心にだけ目を向けて、瞬の心を探るようなことをしたことがなかったからだったろう。

氷河が心配していたのは、「清らかでまっさらな瞬が 同性の仲間に『好きだ』と言われたら、困惑しないわけにはいかないだろう」とか、「『俺は心だけでおまえを愛したいわけじゃないんだ』と告げる男を、瞬は警戒しないだろうか」とか、そんなことばかり――自分と瞬の恋の先行きのことばかり――だったのだ。
瞬の恋に自分以外の人間が関わってくる可能性など、氷河は一瞬たりとも考えたことがなかったのである。
自分の思いを恋人に告白していない男が、そこまで余裕に満ちていてよかったはずがないのにと、氷河は昨日までの自分を、今更ながらに深く悔やむことになった。

瞬は、瞬の恋人に告白くらいはしたかもしれないが、まだ行為には及んでいない。
手遅れではないかもしれない。
手遅れであってくれるなと、氷河はその夜、生まれて初めて心から神に祈った。






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