その夜。
「おまえに好きな相手がいるのなら、それは、その人とすべきことで、好きでもない相手と練習なんかしてはならないことだ」
間違いのない真実のはずなのに、瞬にそう告げることは、氷河の心をひどく苦しめた。

「おまえの好きな相手が、本当におまえのことを好きなのなら、おまえが多少ヘタでも、失敗しても、許してくれるはずだろう?」
まして、笑いながら瞬にそう告げることは、この世にこれほどの苦しみがあったのかと思うほどの苦しみだった。

瞬が――瞬は、氷河の苦しい微笑に、笑顔で答えてはくれなかった。
どちらかといえば控えめで、どことなく恥じらいと切なさをたたえた表情。
ものやわらかな仕草と、ためらいを感じさせる唇。
それらのものは いつも通りだというのに、その眼差しにだけ いつにない熱を力を込めて、瞬は氷河に尋ねてきた。

「氷河なら許すの? へたくそでも」
「愛しているなら、許すだろう」
「……氷河に愛される人は幸せだね」
呟くようにそう言って、瞬がその瞼を伏せる。

おまえだ! と、氷河は叫びたかったのである。
叫んで、そのまま 持てる力のすべてで瞬を抱きしめたかった。
そんなことをすれば瞬を困らせるだけなのだということはわかっていても、そうしてしまいたかった。
そんなことをすれば瞬を困らせるだけなのだということがわかっているから、氷河はそうしてしまうことはできなかったが。

「僕、沙織さんに目標を変えてもらってくる」
瞬が、到底 陽気とはいえない声でそう言ってくれた時、氷河は深い安堵を覚えることになった。
瞬の翻意に――というのではなく、自分が自らの衝動を抑えきることができたことに。
「こんなに早く諦めちゃったら、叱られるかもしれないけど……氷河の言う通りだよね。そういう目標を立てたからって焦って無理をするのは、自分の立てた目標に振り回されることで、本末転倒だもの」
「ああ、それがいい」

瞬の素直な性格を これほど優れた美質だと思ったことはない。
アテナに目標変更を申請してくると言って瞬が氷河の部屋を出ていった時、氷河は心から、瞬に素直な性質を養わせた神と瞬自身に感謝したのである。
おかげで白鳥座の聖闘士は卑劣な男にならずに済んだのだから。

よもや、まさか、その僅か10分後に、
「今年の目標を変更したいって、沙織さんにお願いしたら、一度決めた目標を こんなに早くこんなに簡単に諦めるなんて、アテナの聖闘士じゃないって叱られちゃった」
と言って、瞬が仲間の部屋に戻ってくる事態を、その時 氷河は想定していなかった。
瞬は極めて素直な心の持ち主だが、アテナはそうではないという事実を、氷河は見事に失念していたのである。






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