「それで……どうするんだ」 「来年お年玉をもらえないだけだもの、平気」 「……」 瞬の微笑に力がないのは、決して来年のお年玉をもらえないことが確定したからではなく、アテナにアテナの聖闘士失格と責められたせいだったろう。 あるいは、お年玉をもらうという家庭行事に、来年自分は参加できないことが確定したから――だったかもしれない。 沈んでいる瞬を見ていることは、もちろん氷河には全く楽しいことではなかった。 どうにかして瞬を慰めようと氷河が口を開きかけた時、瞬は思い詰めたような眼差しで、氷河を見上げてきた――再び。 「あの……あのね、氷河。そんなに深刻に考えなくても、その……たとえば一般的な手順を簡単に説明してくれるとか、ちょっとしたコツを教えてくれるだけでいいんだ。ぼ……僕、キスの仕方も知らないから……」 アテナは得意の舌鋒で、思い切り瞬をけしかけたに違いなかった。 『バトル以外のことでは アテナの無謀と無責任に、氷河は、やり場のない腹立ちを覚えることになったのである。 怒りは、平常心と理性の働きを損なうものである。 その上、まだキスも知らないという瞬の言葉は、氷河にとっては非常に喜ばしい情報だった。 それでなくても、氷河は瞬の傷心に責任と焦慮を感じていたのだ。 結果として それらの感情は氷河の理性と判断力をかき乱すことになり、そのせいで、氷河はつい瞬に、 「ま……まあ、キスの仕方くらいなら教えてやらないこともないが――」 と言ってしまったのである。 「ほんと !? 」 善は急げ――と考えたのかどうかは定かではないが、嬉しそうに輝かせた瞳を、瞬はすぐにその瞼で覆ってしまった。 それから唇を一文字に結んで、氷河の前で顔を上向かせる。 瞬がキスも知らないというのは確かな事実のようだった。 固く結ばれた瞬の唇が、言葉を用いずにその事実を氷河に知らせてくる。 (キ……キスくらいなら……) キスくらいなら、ロシアではそれは同性同士でも挨拶の範疇に入る行為である――そのはずである。 日本での滞在が長い氷河は、その知識が現実に即したものかどうかは知らなかったし、ロシア式挨拶のキスにどこまでの濃密を許されるのかも承知していなかった。 が、この場この時に限っては、そんなことはどうでもいいことだったのである。 今 氷河の前で、氷河からのキスを待っているのは、氷河が恋焦がれ続けてきた瞬その人だったのだから。 それでも一応、氷河は、瞬を恐がらせないための注意を払うことまでは忘れなかった。 氷河は、瞬の左右の腕を なるべく力を込めずに掴み、一度小さく息を呑んだ。 互いの唇を重ねて、瞬の上唇をついばみ、下唇をついばみ、そうしてから瞬の閉じられている唇の間に舌を忍び込ませる。 「あ……っ」 瞬が驚いたように小さな声を洩らすと、もはや氷河の歯止めはきかなくなった。 瞬の腕を掴んでいた手を瞬の背にまわし、その身体を強く抱きしめ、瞬の口中に更に深く舌を差し込んで吸い上げる。 「ん……んっ……」 どのタイミングで息をすればいいのかわからずにいるらしい瞬が 呻くような声を洩らしたが、氷河は、今ばかりは、そんなことに気をとめてはいられなかったのである。 瞬の唇や舌を味わうことなど、もう二度とできないかもしれない。 氷河は、執拗にそれを追いかけた。 「ん……あっ……ひょ……が、苦し……わあっ!」 氷河の舌と唇から逃げようとして少しずつ背をのけぞらせていた瞬が、身体の重心を見失って、後ろに倒れそうになる。 氷河は慌てて、その身体を抱きとめることになった。 「は……あ」 氷河の腕に背中と腰を抱きとめられた瞬が、忘れていた呼吸の仕方を思い出したように、大きく息を吸い、吐く。 散々その唇を貪り味わってから やりすぎたことに気付く自分に、氷河は臍を噛んだ。 瞬がこの行為に怯えたり、嫌悪を抱くようになったりしたらどうするのだと、もう二度と触れることができないかもしれない瞬の唇を見詰め、思う。 胸中に大きな不安を抱きつつ、氷河は瞬に尋ねることになったのである。 「どう……だ?」 「ちょっとくらくらする」 懸念に反して可愛い感想が返ってきたことに、氷河は、瞬に知られぬよう安堵の息を洩らすことになった。 「む……難しいような簡単なような……。でも、キスって疲れるね。背筋力が必要かも。氷河がのしかかってくるみたいになるから、僕、つい押され気味になって倒れそうになって、それで背中や膝に力が――」 「横になってすれば、倒れることはない」 「そ……そっか。でも、そうなったら、それこそ氷河の身体を全面的に受け止めなきゃならないことになって、重くて、別の意味で苦しくなるでしょう?」 「全体重をかけるわけじゃない」 「そうなの?」 氷河の言葉を、瞬はにわかに信じることができなかったらしい。 あるいは、瞬が求めているものは、机上の空論ではなく、実践の際の技術とコツだったのかもしれない。 氷河の言葉だけの説明に得心しきれなかったらしい瞬は、まだ平衡感覚を取り戻しきれていないような様子で、氷河のベッドに腰をおろした。 そして、探究心に満ち満ちた瞳で氷河を見上げ、 「どうすれば、重くならないの?」 と訊いてきたのである。 これは悪魔の仕掛けた罠だ――と、人もあろうに清楚そのものの瞬の姿を見て、氷河は思ったのである。 だが、叶わぬ恋に喘ぐ男の心をなぶる悪魔の瞳の なんと魅惑的なことか。 視界が揺らめく。 氷河は夢遊病者のような足取りで瞬の側に歩み寄り、そして、気付いた時には瞬の身体を自分の胸の下に敷き込んでしまっていた。 そうなることを求めたのは瞬なのだから、瞬が逃げるはずはない。 それはわかっているというのに、氷河は自身の全体重をかけて、瞬を彼のベッドに押さえつけていた。 「あ……あん……っ」 瞬が小さな悲鳴を洩らす。 つい先程 教えてやったばかりのキスを、氷河は再び瞬の唇に繰り返していた。 未だ呼吸のタイミングを掴めないでいるらしい瞬に息をする時間を与えるために、その唇を耳や首筋に移動させる。 「あ……ああ……」 瞬の身体は熱を帯びていた。 ためらうような声、瞬の髪の香り、なめらかな肌――が、氷河を誘い続ける。 この魅惑的な生き物をこのまま自分のものにしてしまうことの何がいけないのだ――と、氷河は考え始めていた。 否、そういう考えが、氷河に襲い掛かってきていた。 最初にそれを望んだのは瞬である。 その瞬が、今その身を抱いている男を嫌っているはずがない。 氷河は懸命に、この行為を正当化する理由を考え、自身を納得させようとしたのである。 実際には――理由も何もあったものではなかった。 むしろ、その考えは、氷河の身体の反応を追いかけるように遅れて生じてきたものだった。 到底 身体には追いつけない。 氷河の血肉は、瞬を欲していたのである。 瞬に身体を重ねた時から、自分の身体中の血液がある一点に集まりつつあることを、氷河は自覚していた。 その部分が、既に怒張といっていい様相を示している。 これを瞬の中に入れたい。 これを瞬の中に入れたいのだ。 瞬がそうしてもいいと言ってくれさえすれば、瞬の恋など――見知らぬ誰かと瞬の恋などどうなっても構わない。 そんなものは消えてなくなってしまっても誰も困らない。 瞬が悲しむというのなら、瞬を奪った男がその悲しみを忘れさせてみせる。 それは不可能なことではないはずだと、氷河は自分に言い聞かせた。 「瞬……俺はおまえが――」 「あ……ふ……」 瞬の甘い溜め息が 氷河の耳と肩口に届けられ、そのせいで彼の某所は更に張り詰めることになった。 「こう……して、そのあと……どうするの……?」 瞬が消え入りそうに小さな声で、氷河にそう尋ねてこなかったなら、氷河はそのまま瞬を我がものにしてしまっていただろう。 瞬のその声に、怯えの色が混じってさえいなかったなら。 瞬の声が、未知の行為への探究心だけでできていたなら。 だが、現実には、本当に僅かではあったが瞬の声には、何かを恐れているような響きが混じっていた。 瞬は、懸命に、その感情をひた隠そうとしているようだったが。 あさましく肩で息をしている自分に気付き、氷河は一度きつく目を閉じた。 微かに残っていた理性が、何より瞬の か細い声が、脳の奥の冷めたところで、氷河に自制を促してくる。 (だめだ……) それが、氷河の辿り着いた結論だった。 こればかりは『俺は瞬が好きなんだから』で成り立って いいことではない。 これは、瞬を征服しようとしている男に対して、瞬もまた同じだけの好意を抱いている時に初めて成り立つべきことなのだ。 綺麗事でも――世の中のすべての性交が その綺麗事にのっとって行なわれているものでなかったとしても、瞬だけは 氷河は、瞬にだけはそうであってほしかった。 だから、死ぬ思いで、氷河は自身の身体を瞬の身体から引き離したのである。 否、それは『引きはがした』と表現すべき行為だったろう。 氷河の心身は既に、半ば以上が 瞬の心身に取り込まれつつあったのだ。 決死の思いで上体を起こした氷河の下に、少し襟元を乱した瞬が しどけなく横たわっている。 瞬の両手はシーツに押しつけられていた。 瞬の両膝は すべての感覚を身体の内側に こもらせようとするかのようにきつく閉じられ、それとは対照的に、瞬の爪先からは完全に力が抜けてしまっている。 獰猛な肉食の獣の前で、手足は犠牲にしても命だけは守ろうとする小動物のようだと、瞬のその様を見て氷河は思った。 瞬にこんな覚悟を強いて、自分は何を得るつもりなのか――氷河は、音がするほど強く、自身の奥歯を噛みしめたのである。 荒い息が、なかなかおさまらない。 肩で息をしながら瞬の上から身体を起こすと、氷河は瞬の姿を見ずに済むように、瞬に背を向けた。 ベッドに腰をおろしたまま立ち上がろうとしないのは、瞬への未練なのか、それとも単に、立ち上がる気力が湧いてこないだけなのか――。 自分のことだというのに、氷河にはその理由がわからなかった。 氷河が瞬の上から身体をどかせたあとも、瞬は固く目を閉じて、しばらくの間、その身体を氷河のベッドに横たわらせたままでいた。 自身の身に 何も――次の何かが――起こらないので、瞬は恐る恐る目を開けたらしい。 そろそろと身体を起こし、無言で瞬に背中だけを見せている仲間を見詰める。 そうして、そのまま1、2分。 瞬の姿は見えていないのに、瞬の瞳から涙の粒が零れ落ちたのが、氷河にはわかった。 瞬がなぜ泣くのか、その理由は、氷河にはわからなかったのだが。 自分のことさえわからないでいる氷河に、他人を恋している瞬の気持ちなど、なおさらわかるはずがない。 自分は瞬に謝るべきなのか、瞬を慰めてやるべきなのか、あるいは逆に責めるべきなのか――。 そんなことの判断すら、今の氷河には為すことができなかった。 乱れた襟元を右手で押さえ、怯えた様子で、瞬が氷河のベッドをおりる。 「ご……ごめんなさい、氷河」 涙を含んだ小さな声で、瞬がいったい何を謝っているのかも、氷河にはわからなかった。 無言でいることしかできない氷河の部屋を、瞬が頼りない足取りで出ていく。 室内から完全に瞬の気配が消えた時、『泣きたいのは俺の方だ!』と、氷河は声には出さずに叫んでしまったのである。 瞬はなぜ、よりにもよって、瞬に恋焦がれている男に、こんな苦行を課すことを思いついたのか。 普段からそれとなく優しく接していたことが 仇になったのだとしても――そうなのだとしたら、なおさら――これは残酷に過ぎる報いである。 瞬のいなくなった部屋の中に、氷河は、死にかけた獣のように低い呻き声を響かせた。 |