「氷河! 瞬が必死で目標達成のために努力しているのに、どうして協力してやらないの! 瞬がせっかく自分の殻を破ろうとしているのに!」
細い眉を思い切り吊り上げた沙織がラウンジに怒鳴り込んできたのは、翌日の朝。
三が日の内でなければ、世の中の企業や学校が始業のチャイムを響かせる時刻だった。

どうやら瞬は、昨夜あれからもう一度沙織の許へ今年の目標変更の嘆願に行ったらしい。
氷河との間に起きたことをどこまで詳細に知らせたのかは定かではないが、瞬は自分の目標の実現は無理だと、沙織に告げたのだろう。
だが、白鳥座の聖闘士の非協力的態度に沙織がどれほど腹を立てようと、白鳥座の聖闘士には白鳥座の聖闘士の都合というものがあるのだ。
氷河の理性の稼働力にも限界があるのである。

「沙織さん。沙織さんには不愉快なことかもしれないが、俺は瞬が好きなんだ。本気で、特別な意味でだ。俺が沙織さんに提出したあの目標は冗談なんかじゃなく、心底からそうしたいと望んだからで――本気だったんだ」
「そんなことわかってるわよ。いやあね。女の敵。サイテー」
沙織が、さして驚いた様子もなく嫌そうな顔をするのに、氷河は少々――否、大いに――面食らった。
白鳥座の聖闘士がアンドロメダ座の聖闘士に抱いている好意がどういうものであるのかを承知しているのなら、沙織は昨夜の白鳥座の聖闘士の苦悩がどれほどのものだったのかを察してくれてもいいではないか。

「なら、その俺が、俺以外の誰かと瞬の恋路に快く協力できるはずがないことくらい、わかってくれてもいいだろう! 俺は瞬の目標成就に協力などできない!」
「え?」

氷河がラウンジに木霊させた怒声なのか悲鳴なのかの判別が難しい大声に、沙織は一度大きく瞳を見開いた。
それから おもむろに眉をひそめる。
そして、奇妙な間をおいてから、アテナは不審げな表情で氷河に尋ねてきた。
「氷河、あなた、瞬の今年の目標を誤解しているんじゃない?」
「誤解?」

誤解しているのではないかと問われても、氷河には否とも応とも答えようがなかった。
そもそも氷河は、瞬の“今年の目標”を知らなかったのである。
彼は、ただ、
「瞬の今年の目標って、『年内にドーテーを捨てる』じゃないのかよ?」
という星矢の推察を、多分そうなのだろうと思い込んでいただけだったのだ。
瞬は、『僕の今年の目標達成に必要だから、セックスの仕方を教えてほしい』と言っていた。
瞬の今年の目標が、誰かと性交を成立させること、もしくは 性交成立によって得られる何事かであるのは疑う余地のないことである。
――と、氷河は思っていたのだ。

が、そうではなかったらしい。
星矢の言葉に、沙織は首を横に振った。
「何を言っているの。瞬の目標はそんなものじゃないわ」
「では、瞬が設定した今年の目標というのは何だったんです」
沙織の否定を受けて、紫龍が、極めて自然な質問を彼女に投げかける。
問われた沙織は、しばし困ったような顔を見せた。ほんの数秒間だけ。

その数秒ののち、
「あなたたちには知らせないでくれと、瞬には口止めされているのだけど――」
と前置きしてから、沙織は、驚くべき瞬の今年の目標を、瞬の仲間たちに教えてくれたのである。
それは、なんと、
「瞬の今年の目標は『氷河を僕のものにする』よ」
――というものだった。

城戸邸ラウンジが、今度は数秒間では済まない長さと重さをもった沈黙に覆われる。
その沈黙――アテナの言葉の真意を理解しかねた青銅聖闘士たちの沈黙のあと、最初に口を開いたのは某白鳥座の聖闘士だった。
「俺には、そんな目標は絶対に駄目だと言ったじゃないですか!」
氷河の非難は、至極当然のものだったろう。
しかし、沙織は、自分の対処・決定に矛盾や不合理があるなどとは毫も考えていないようだった。
むしろ氷河の憤りが理解できないと言わんばかりの目をして、彼女は、
「だって、あなたが瞬をあなたのものにしたら、瞬はあなたのものにされち・・・ゃって・・・、自分の目標を達成できなくなってしまうじゃないの。あなたの目標は却下されて当然でしょ」
と言ってのけたのだ。

「は?」
アテナの唱える理屈が、氷河には全く理解できなかったのである。
『アンドロメダ座の聖闘士が白鳥座の聖闘士を自分のものにすること』と『白鳥座の聖闘士がアンドロメダ座の聖闘士を自分のものにすること』。
それは背反すること、両立し得ないことなのだろうか――?

沙織の言葉の意味が理解できなかったのは氷河だけではなく――それは、星矢も紫龍も氷河と同じだったらしい。
アテナの考えを理解するためには、もはや言葉を選んではいられない。
星矢は、極めて下世話なオタク用語を用いて、アテナの真意を探ることを開始した。
「沙織さんて、もしかして、瞬の目標を『瞬=攻め、氷河=受け』の図式で想定してんのか?」

星矢の用いたオタク用語に、氷河は心底 嫌そうに顔を歪めた。
星矢は、だが、そんなことに頓着する人間ではない。
氷河の快不快より、沙織の考え――ひいては瞬の考え――を理解することの方が、今の星矢には より重要なことだったのである。

瞬の今年の目標が『氷河を自分のものにする』。
沙織に却下された氷河の今年の目標が『瞬を自分のものにする』。
この二つの事象が並び立たない状況が、星矢は他に思いつかなかったのだ。

が、それは非常識というものである。
理屈の上では可能でも、イメージ上、大きな問題がある。
否、やはりそれは常識の問題、一般的な識見、もしくは情理の問題だった。
『瞬=攻め』は是か非か――と問われれば、星矢は『非』と答えるしかなかったのだ。

そして、それは――その件に関してだけは――沙織も星矢と同意見だったらしい。
彼女は、星矢の問いかけを言下に否定した。
「そういうのは、ギリシャ的な美意識に反するわね。ギリシャの男性同性愛は、年上の者が年下の者を教え導くことに意義があるとされているのよ。瞬もそこのところはちゃんとわかっているから、氷河のところに教えを乞いに行ったんでしょう」

沙織の言葉に、なぜか氷河より先に紫龍と星矢が安堵の息を洩らす。
二人に少し遅れて、沙織の常識的美意識に心を安んじようとした氷河は、
「だいたい、瞬が氷河を押し倒して目標達成になるんだったら、そんなの困難を伴うどころか、今すぐにでも実現できる簡単すぎる目標でしょ。氷河より瞬の方が強いんだから」
というアテナの断言に、そうすることを妨げられた。
アテナのその見解に堂々と反論できるだけの論拠を有していなかったため、結局 氷河は沈黙を守ることしかできなかったのだが。

「氷河をその気にさせるために、瞬が積極的かつ能動的に行動を起こすこと。それが重要なのよ。瞬は、あなたたちの中では比較的 協調性には優れているけど、今ひとつ能動性に欠けているから」
『氷河を僕のものにする』という瞬の今年の目標は、瞬の積極性・主体性を養うことに通じる――というのが沙織の考えであるらしい。
瞬が その身に積極性・主体性を備えること――それが沙織の求めている成果であるのなら、それを養うための方法は手にいくらでもあるだろうに――と、正直 星矢たちは思ったのである。

「しかし、それにしても、よく許しましたね。そんな瞬の目標を」
「まったくだぜ。氷河には『女の敵』とか言うくせにさ」
「あら、当然でしょ。ギリシャの神々に、同性愛禁止なんて言い出したら、私は、父や伯父、兄弟、何人もいる従兄弟たち――親族全員の嗜好を全否定することになるのよ」
「それはまあ、確かに……」
“城戸沙織”はともかく、“女神アテナ”の(形式上の)父とされる大神ゼウス、伯父に当たるポセイドン、兄弟神であるアポロン、ヘルメス、その他もろもろ、アテナの親族といえる ほぼすべての男性神が男子との恋の逸話を有している。
確かに、アテナにその趣味を否定することは到底できることではなかった。

「それにねえ。鍛冶屋の商売敵は鍛冶屋、宗教家の商売敵は宗教家、女の商売敵は女よ。瞬が私以外の女神をたらしこむとでも言い出したのなら、私だって反対したけど、相手が氷河なのなら、私には実害もないし、プライドも傷付かないし、全くの無問題でしょう?」
「つまり、氷河は沙織さんのライバルにはなり得ないと、そういうことですか」
「ええ、そうよ。当然でしょ」

沙織がどういう意味で『ライバル』という言葉を用いているのかは定かではなかったが、ともかく彼女はどこまでも自信満々である。
たとえ それが女神でなくても、女と呼ばれるものが瞬の恋の相手なのであれば、その恋は 自分の恋とは次元の違うものであり、自分には勝ち目がない――戦い自体を挑むべきではない――という考えは、確かに氷河も持っていた。
沙織の自信に満ちた態度は少々癪ではあったのだが、彼はこの場で沙織に対抗心をもって当たることはできなかったのである。
何はともあれ沙織は、瞬の今年の目標が『氷河を僕のものにする』であるという貴重な情報を氷河にもたらしてくれた幸運の女神ではあったのだ。

氷河は今すぐにでも瞬の許に飛んでいき、セックスの仕方でもダイヤモンドダストの打ち方でも、手取り足取り懇切丁寧に瞬に教えてやりたい気分だった。
幸い――あるいは、不幸なことに――氷河が瞬の飛んでいく前に、瞬の方が氷河の前に舞い降りてきてくれたのだが。






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