「沙織さん。僕の新しい目標、訪問介護員の資格を取るというのはどうですか」 アテナと仲間たちの前にやってきた瞬は、少し赤い目をしていた。 持ち合わせの少ない積極性と主体性を駆使して氷河に働きかけ、その努力が無残な失敗に終わった日の翌日なのだから、それも致し方のないことだったかもしれない。 しかも、瞬が失敗した事柄は、スポーツや勉学などとは次元の違う、非常にデリケートな勝負事――賭け――だったのだ。 その場に氷河の姿があることに気付いた瞬が、少し 沙織は、瞬の怖気に気付かぬ振りをした。 瞬の新しい今年の目標も聞こえなかった振りをした。 その代わりに、彼女は、何食わぬ顔どころか 渡りに舟と言わんばかりの顔をして、瞬に告げたのである。 「瞬、ちょうどよかったわ。あのね、氷河があなたに文字の書き方を教えてほしいと言っているの。今夜から毎晩2時間マンツーマンで特訓をしてあげて」 「え……」 「まさか氷河がペン習字の師範の資格取得にここまで積極的に取り組む気になってくれるなんて。この機を逃したら、氷河の悪筆を治す機会はまずないでしょう。協力してくれるわね、瞬」 「あの……」 今の瞬にとって、氷河は、最も近付きたくない人間――共にいることがもっとも苦しく感じられる人間だった。 泣きそうな目をして尻込みする瞬を、だが、沙織はあえて手招きをして自分の側に呼び寄せたのである。 そして、低い声で囁いた。 「人間の――自分の人生が思い通りにならないことが多いのはなぜかわかる?」 「あの……僕は……」 人生が思い通りにならないものだということを、今の瞬は身に染みて知っていた。 なにしろ、たった今、瞬の人生は瞬の思い通りになっていなかったのだ。 だが、そうなった理由まではわからない。 もしかしたらそれは“運命”と呼ばれる力によるものなのではないかとすら、瞬は考え始めていた――そう考えることで、自分を納得させようとしかけていた。 が、沙織の意見は、瞬のそれとは違っていたのである。 「人はひとりでは生きていないからよ。あなた以外の人間は、あなたとは異なる価値観と都合をもって生きている。そして、必ずしも人の求めるものは合致しない。でも、そこを調整して、自分の思う通りに世界を変えていく力を持った者が、人生の勝利者たりえるの。自身の努力で人を感動させ、その心を打ち、思い通りにならない世界を変革していく力を身につけなければ、人は自分の人生を自分の思う通りにすることはできないのよ」 そう、彼女は言ったのだ。 「……」 多分そうなのだろうと思わないわけにはいかず、瞬は唇を噛みしめたのである。 その力を自分が有していないのだということを、瞬は認めないわけにはいかなかったから。 「その力を養うことは、本当にとても大事なことなのよ。大きな目標は大抵ひとりだけでは成し遂げられないものだから。あなた一人が地上の平和を実現させようと叫んでも、その願いは叶うものではないわ。多くの人間の共感と賛同を得なければ、それは無理。でも、だからこそ、アテナの聖闘士は、人の心を動かすべく積極的かつ能動的に努力することが大切なの」 「……」 「障害や困難に出合うたびに目標や夢を諦めていたら、瞬、あなたは一生敗北者よ。一人の人間としても、アテナの聖闘士としても」 「さ……沙織さん……」 アテナの厳しい言葉に、瞬が苦しそうに眉根を寄せる。 “瞬”という人間が人生の敗者であることは、瞬には実は さほど つらいことではなかった。 自分は勝者の側にいる人間ではないと、瞬個人は幼い頃から認識していたのだ。 “瞬”という個人は、いつも不遇で弱者だった。 だが、アテナの聖闘士としての“瞬”が敗者であることは許されない。 それは、瞬ひとりの不幸で終わることではないのだ。 瞬の言葉は、だから、挫折感でいっぱいの今の瞬を、ひどく苦しめることになったのである。 そんな瞬を見て、沙織がふっと表情を和らげる。 厳しい女神から心優しい女神になって、沙織は、わざと氷河に聞こえるような小声で瞬に囁いた。 「氷河に字を教える振りをして、さりげない接触を試みるところから始めなさい。あなたが親身になって教えてあげれば、それは必ず氷河の胸を打つことになるわ。先は長いの。時間はまだ1年もある。いいえ、その先もあるの。あせらないで」 「沙織さん……」 他ならぬアテナの鼓舞激励である。 瞬は、彼女の言葉に励まされないわけにはいかなかった。 人生の典型的な勝利者である沙織の言葉には、それだけの重みと力強さがあった。 「おー、煽る煽る」 すっかり傍観者を決め込んでいた星矢が、脇で、沙織のやり様を小声で囃したてる。 そんな星矢に苦笑する紫龍の目は、しかし、半分ほどは真面目なものだった。 「夢や希望を諦める人間を見るのが、心底嫌いなんだろうな、沙織さんは。だからこそ、彼女は俺たちの女神なんてものをやっていられるのかもしれん」 これが諦めのいい 人間は皆、醜悪かつ自分勝手な生き物で、我が身の保全ばかりを願っているのだと悟った振りをして。 そういう諦観や悟りに縁がないアテナは、だが、最後の最後まで諦めずに粘り足掻き続けるのだ。 諦めないからこそ、沙織は人生の勝利者なのだとも言える。 そんな沙織の励ましは、もちろん瞬の胸を打った。 この場に現れた時には ほとんど今年の目標を諦めきっているようだった瞬の瞳に、力と輝きが戻ってきている。 近付くことを恐れているようだった氷河の側に、そして、瞬は自分から歩み寄っていった。 それでもまだ少し切なげな眼差しで、“僕のものにしたい”人の瞳を見上げ、見詰める。 「氷河、あの……ぼ……僕、そんなに綺麗な字が書けるわけじゃないけど、氷河の目標達成のために協力するから、だから、氷河も僕の目標実現のために力を貸して」 「……」 瞬の“今年の目標”が何であるのかを知ってしまったあとだけに、氷河としては、瞬の真摯な眼差しにどう答えるべきなのかを迷うことになったのである。 浮かれて、二つ返事で諾と答えるには、瞬の眼差しは真剣に過ぎたのだ。 「僕はどうしても――どうしても、僕の目標を成就させたい。叶えたい。今年だけのことじゃないの。あれは僕の一生の――僕の一生をかけた夢なんだ」 潤んだ瞳で そんなことを訴えてくる瞬に、氷河はくらくらと目眩いを覚えることになったのである。 “俺のものにしたい”人に、こんなにも健気な様子で、そんなことを言われてしまっては、氷河としても対応に困る。 氷河にはこれは望外の幸運で、彼は、許されるなら今すぐここで『俺はおまえが好きなんだ』と告げ、瞬を押し倒してしまいたいほどだった。 だが、氷河は、もちろん そうすることはできなかった。 その場に瞬以外のギャラリーがいたからではない。 彼がそうすることをためらった理由。 それは、白鳥座の聖闘士が今ここで そんな行為に及んだら、彼は、瞬の目標を瞬自身に実現させてやることができなくなる――という実に困った事情のせいだった。 “氷河”はあくまでも瞬に誘惑され、瞬の手練手管に屈し、瞬の誠意に心を動かされ、瞬を愛するようになり、欲望抑え難い状況に追い込まれなければならない。 その上で、心情的には瞬のものになり、肉体面では瞬を我がものにしなければならないのだ。 つまり、瞬の誘い受けを成功させてやらなければ。 自分が積極的に出るだけで事が成るのなら、それは実に単純かつ容易な仕事だと、氷河は思った。 だが、相手が心を持つ存在である限り、それは無理なこと、してはならぬことなのである。 もの言わぬ花を愛することと、瞬を愛することは、その本質に大きな違いがあるのだ。 腕力暴力を用いずに人の心を思う通りに動かすことは、沙織の言う通り、困難を極める作業である。 ただ、深い思い遣りと技術を伴った愛のみが、それを可能にする。 人が生きるということは、人が心を持つ生き物であるという事実によって、格段に困難なものになっている。 人は、その点で、心を持たない動物とは異なるのだ。 おそらく、人類の脳は、他者の心を思い遣るために、他の動物とは異なる進化を遂げることになったに違いなかった。 「善は急げだ。夜からと言わず、今すぐペン習字の練習にとりかかろう」 氷河は、決して、一刻も早く瞬とコトに及びたいなどという浮かれた考えで、そんなことを言ったのではなかった。 が、星矢は 「おい、氷河」 片眉を歪めて、星矢は氷河に自制を促してきた。 そんな仲間に、氷河が極めて真剣・深刻な眼差しを向ける。 「俺がうまく瞬の誘い受けに乗れるよう、祈っていてくれ」 これが非常に難しくデリケートな作業だということは、わかっている。 うまく成し遂げられるかどうか、それは氷河自身にもわからないことだった。 だが、今この事態から逃げることは自分には許されない――ということも、氷河は承知していたのである。 瞬のため、そして、自分自身のために。 「瞬、頑張ってね! 目標を達成して、氷河があなたから離れられなくなるようにして、来年のお正月には、本当の意味での寝正月を実現するのよ!」 全身に緊張感をみなぎらせた氷河とは対照的に、沙織は気楽そのものである。 無責任ともとれる沙織の激励に、星矢は、 「おい。今年の目標設定騒ぎって、俺たちのだらだらした寝正月もどきが沙織さんの気に障って始まったことなんじゃなかったっけ? 来年の正月の目標を寝正月にしてどーすんだよ?」 と、ぼやくことになったのだった。 星矢のぼやきは、だが、瞬の耳には届かなかったらしい。 「はい! 頑張ります!」 女神アテナの励ましに決意を秘めた瞳で頷いた瞬は、そうして、彼の今年の目標実現という偉業に挑むため、力強い足取りで、氷河と共にラウンジを出ていったのである。 つまり、『氷河を僕のものにする』ために。 |