C公国の政体は、アクエリアス家が世襲する大公を元首とする立憲君主制。 八百年の歴史を持つ由緒正しい独立国である。 13世紀初頭、神聖ローマ皇帝によって欧州の北方に封じられ、一国としての独立を得たのち、その独立を長く保ってきた。 同時代に成立した周囲の小国のほとんどが、長い歴史の中で その独立を失い、他国に併合されていったにも かかわらず、C公国が独立を維持できた要因は、地理的にも宗教的にも言語の上でも特異なC公国のあり様にあった。 地理的には四方を険峻な山々に囲まれ、外敵の侵入が困難であったこと。 宗教的には、カソリックでもプロテスタントでもなく、長くギリシャ正教を国教としていたこと。 言語面では、スラヴ語圏に属するが、地理的に隔絶した地域で発展したため、かなり地方色が濃く、他国の者には理解の困難な言語を国語としていたこと。 それらの条件に加え、この八百年の間、周囲の国々が戦に明け暮れていたという歴史的事実が、C公国の独立を守ってきたのである。 つまり、C国の周囲の国々は、大事が起こった時の避難場所として、C大国の独立と中立を歓迎していたのだ。 スイス連邦共和国、モナコ公国、C公国の三国に別荘と銀行口座を持つことが、欧州のみならず世界中の王室や富豪たちの常識で慣例。 豊富に流入してくる外貨に支えられたC公国の国民は、おおむね豊かな生活を保障されていた。 とはいえ、C公国は、規模的には人口5万に満たない小国。 基本的な国力は非常に脆弱なものではあったのだが。 そんな小国も――そんな小国だからこそ?――C公国は、世界情勢に敏感に反応する。 某超大国のサブプライムローン問題に端を発した世界的大恐慌は、C大国にも未曾有の危機をもたらすことになった。 世界各国は、自国の経済救済のため、C公国の銀行に預けていた多額の資金を一斉に引き上げ、それはC公国の経済を揺るがす非常事態を招くことになったのである。 「金だ! 金が必要なんだ! ドルでも円でもユーロでも、とにかく外貨が!」 C公国の現国家元首にして 氷河の叔父であるカミュが、公国の宮殿の執務室に雄叫びを響かせたのは、C公国とは陸続きの某大国が、C公国国立銀行に預けている50億ドルの資金引き上げを通知してきた その日のこと。 「どこか掘ってみますか。金くらい出てくるかもしれない」 氷河がそんな軽口としかとれないようなことを言ったのは、叫んでも わめいても この事態が好転することはないという現実を理解していたからだった。 それより何より、叔父に少々落ち着いてもらいたかったから。 が、人間というものは、どういうわけか、他人が慌てていると自分は落ち着き、他人が冷静でいると自分は浮き足立つようにできている。 つまり、氷河の気遣いにもかかわらず、カミュは全く落ち着いてくれなかったのである。 「我が国の地下を掘って出てくるのは美味い水だけだ。それも商売の種になるものではあるが、それを産業として根づかせるには金と時間がかかる。今は国家危急存亡の 浮き足立ってはいるが、それなりに判断力は働いているらしい。 氷河は、叔父のその言葉には賛同した。 『ではどういう対応策があるのか』と問われると、氷河にも妙案は浮かばなかったのであはあるが。 その点、カミュは、どれほど慌てていても一国の国家元首。 彼がこの場に氷河を呼びつけたのは、決して国家元首の慌てふためく様を 甥に見物させるためではなかったらしい。 それが真っ当かつ有効な対応策かどうかということは さておいて、彼は、その胸中に、既に“即効性のある対策”を秘めていたのだ。 それまで 落ち着かない綿埃のように あたふたしているばかりだったカミュが、突然、足を踏み入れる者とてない森の奥にある湖の湖面のように静まりかえる。 そうしてから彼は、至って冷静な声と表情で氷河に告げた。 「そこで、氷河。私は、C公国現国家元首として、次期大公のおまえに命じる。おまえ、今すぐ国外に赴いて外貨を手に入れてこい」 「……」 氷河は、確かにC公国の次期大公になる予定の人間だった。 が、次期大公ということは、今はまだ大公ではないということである。 実際に、氷河の現在の地位は C公国国軍参謀長。 国内にある銀行や王宮警備の人員配置や予算管理を主な業務としていた。 ここのところの予算削減による採用縮小傾向も手伝って、時には仕卒の訓練指導まで行なう、いってみれば何でも屋。 こんな時にだけ次期大公の肩書きを持ち出されても、氷河としては『はあ、そうですか』としか答えようがなかったのである。 「この国の次期大公である俺に出稼ぎに出ろと?」 ゆえに、氷河は、カミュは冗談でそんなことを言い出したのだと思った。 だから、氷河は、もちろん冗談のつもりで叔父にそう問い返したのである。 が、氷河のその冗談に対してカミュから返ってきたものは、 「理解が早いのは結構なことだ」 という、C公国現国家元首の即答だったのである。 「へ」 よもやまさか、C公国現国家元首は、C公国次期大公に『C公国国立銀行に口座を開設しませんかー』と銀行外交員のような営業まわりをしてこいと言うのだろうか。 氷河は、軽度の頭痛を伴った目眩いに襲われることになった。 その時点ではまだ、氷河の頭痛は至って軽いものだった。 C公国現国家元首が、 「J国にキド家という家がある。世界中の国の財政が重篤な風邪ひき状態に陥っている中、くしゃみ一つせずにいられるほどの財力を有する超金持ちだ。そこに妙齢の令嬢がいる。まだ10代。当主の孫娘だ。おまえ、今すぐJ国に赴き、彼女を落としてこい。プロポーズして、彼女を我が国の人間にするんだ」 と言い出すまでは。 「か……金持ちの令嬢の持参金で、この危機を乗り切ろうというんですか」 「この私がそんなみみっちいことを考えると思うのか? 彼女は、総資産300億ドルと言われるキド家の唯一の後継者だ。いずれ、キド家の財産すべてを彼女が相続することになっている。私の狙いはそれだ!」 「……」 氷河の頭痛が激しいものになる。 が、カミュは、甥の頭の具合いを気遣う様子など、全く見せなかった。 なりふり構わぬとは、まさにこのこと。 言葉すら飾らずに『財産目当ての結婚をしろ』と命じてくる叔父に、氷河はあっけにとられてしまった。 そして、今C公国を襲っているこの危機がいかに重大なものであるのかを、彼は 改めて認めることになったのである。 普段のカミュならば、決してこんなことは言わない。 平生の彼は、『国家元首たるもの、クールでなければならない』を わざわざ信条にしなければならないほどの人情家だった。 『金で幸福は買えるものではないが、安定した生活は国民の幸福の一助になるだろう』と言いながら社会福祉に力を入れ、甥である氷河にも本当の意味での幸福を得てほしいと願う、国民にとっては良き王、氷河にとっては良き肉親だったのだ。 両親のない氷河は、そんな叔父を敬愛していた。 とはいえ、そんな氷河も、300億ドルというキド家の資産額には くらくらしないわけにはいかなかったのであるが。 なにしろ、C公国の国家予算は、多くても年間1億ドル程度のものだったのだ。 「300億ドル――ですか……」 氷河の口から、つい感嘆の声が洩れる。 カミュは、自分の資産のことでもないのに、得意げに氷河に頷いた。 「キド家は世界長者番付10傑の常連だ」 「我が大公家は100番内に入ったこともありませんね」 「500番内に入ったこともない」 自分で言及することになった厳しい現実にさすがに苦い顔になって、カミュは彼の試算を氷河に語り続けた。 「単純計算でいくと、我が国の300年分の国家予算に当たる資産を、いずれ彼女は相続するんだ。一時的にでもいいから、せめて その100分の1を我が国に投資してもらえれば、我が国の命運はかろうじて保たれる。それに、彼女をおまえの妻として我が国に送り込むことは、キド家にとっても悪い話ではないはずだ。キド家は正真正銘の平民、貴族ではない。こちらは痩せても枯れても八百年の歴史を誇る大公家。彼女にしてみれば、これは十分に玉の輿のはずだ」 氷河は渋い顔にならざるを得なかった。 国の存続と国民のためとはいえ、ここまで あからさまに政略結婚を推奨してくる叔父の神経を疑って。 氷河の知っているカミュは、本当にこんな人物ではなかったのだ。 いっそ家出でもしてやろうかとまで考えた氷河が、それでもJ国に赴く気になったのは、 「おまえの趣味を知り尽くしている私が断言するが、彼女はおまえの好みどんぴしゃの美少女だ。それは保証する」 というカミュの言葉を信じたからではない。 仲人口を信じるほど、氷河はおめでたい男ではなかった。 「彼女を未来の大公妃として、我が国に迎えるのだ。それまで帰ってくることは許さん」 という、C公国現国家元首の脅しに屈したからでは、なおさらない。 好きでもない相手と一生を共にするくらいなら、異国の地で期間従業員として肉体労働に従事する方が はるかにましだというのが、氷河の考えだった。 氷河が、それでもJ国に赴く気になった訳。 それは、 「それほどの金持ちで、何不自由ない生活をしているんだが、彼女も両親はなくてな。私が会った時も、どこか寂しげだった。幸福というものは、やはり金で買えるものではないのかもしれない」 という、国家元首の命令とは矛盾した叔父の呟きのせいだったのである。 |