カミュの呟きに乗せられた形で、ついついやってきてしまった某J国。
しかし、冷静に考えてみれば、である。
親身になって叱ってくれる両親はなく、金ばかりが腐るほど与えられる環境にいる人間が、素直で心優しい女性でありえる可能性とは、どの程度のものなのだろう?
そういう環境にある人間は、むしろ、金の力にあかせて他人を意のままにしようとする、我儘で思いあがった遊び好きな娘に育つのではないだろうか。
主に緑色でできた癒し系の風景と、王宮より立派な銀行だけが自慢の田舎の国に、そんな女性が喜んで嫁ぐ気になってくれるとは思い難い――。

J国の地を踏んでから、氷河はカミュの計画の杜撰さに思い至り、長く吐息することになったのである。
もちろん彼は、カミュの言う『おまえの好みどんぴしゃの美少女』に、この国で本当に出会えると期待していたわけではなかったのだが。

世界各国の王室・富豪に つてだけは腐るほどあるカミュは、どういうルートを使ったのか、キド家主催のパーティの招待券を入手していた。
名目は当主の誕生祝い。

J国 首都郊外に構えているキド家の邸宅では、世界を覆いつくしている大不況が嘘のように豪華なパーティが催されていた。
当主は白い髭を蓄えた貫禄のある老人。
息子夫婦に先立たれ、孫娘だけが唯一の肉親という老人は、一瞥した限りではかなり気難しそうな男だった。
もっとも、身分を隠し、ほとんどどさくさに紛れて会場にもぐり込んだような氷河は、彼と口をきく機会も持てなかったのではあるけれども。

招待客は300人ほど。
王族でも貴族でもない一介の平民が、企業経営者や団体代表という名目も用いずに個人の名で それだけの規模のパーティを自宅でできるのだから、キド家の財力は相当のものである。
パーティの主役は、このパーティに誰が招待されているのかも把握していないのだろう。
招待客が出揃ったとは言い難い時刻に短い挨拶を済ませると、彼はパーティのメインホールから さっさと退出してしまった。

もちろん、孫娘の紹介もない。
徐々に増えていく招待客たちで熱気を増していくパーティ会場のどこに噂の孫娘がいるのかということすら、氷河には全くわからなかった。
案外、このパーティの開催自体が、一時的にでも雇用を促進し、社会に金を放出するための慈善興業なのかもしれない――と、氷河は思ったのである。

小楽団が耳に心地良い音楽を奏でてはいるが、その曲に合わせてダンスをする者がいるでもなく、ディナーのための個別の席が設けられているわけでもないパーティ。
それは氷河には初めて経験するタイプのパーティだった。

広いホールと解放された幾つかの部屋には、それぞれに手の込んだ料理や飲み物が用意されている。
それらのものを適当に腹の中におさめながら、ある者は椅子やスツールに腰をおろし、ある者は立ったまま、招待客たちは、特に式次第もないパーティの時を思い思いに過ごしている。
あちこちに固まって商談をしているようなタキシードの男たち。
女性陣は、商談組とは別に幾つものグループを作って、歓談に花を咲かせている。
それは、少なくとも この家の当主の誕生日を寿ぐことを主目的としてこの場に来ている者は一人としていない――と断言できるような集会だった。
『TIME』や『VOGUE』で見かけたことのある顔もいくつかあったが、銀行の外務員としてやってきたわけではない氷河は、彼等に近付きになる必要も覚えなかった。

氷河はあまり社交的とは言い難い男で、国内でも国外でも、その手のことは現大公であるカミュが一手に引き受けており、特に国外では氷河は顔の知れた人間ではない。
この場にC公国の次期大公の顔を知っている者はなく、氷河は この場にいる者たちに お忍びでやってきた外国の貴族か芸能人と思われているようだった。
氷河に興味を持ったらしい女性が幾人か、その正体を探ろうとしたのか近付いてきたが、氷河は言葉がわからない振りをして、彼女たちの相手を丁重に遠慮させてもらったのである。

とにかくこのパーティに出ろというカミュの命令には従った。
あとは『彼女はどうやら面食いではなかったらしく、振られてしまった』とでも言って帰国すれば、それで次期大公としての義務は果たした――少なくとも努力はしたと、カミュも認めてくれるだろう。
そう氷河は考えていた。

せいぜい この3、40年のうちに成り上がった成金――成金だろう――にしては趣味のよいキド家の邸宅の調度や絵画を眺めて時間をつぶし、そろそろこの退屈なイベント会場から辞去してもいいのではないかと氷河が考え始めた頃。
残念ながら、氷河はその考えを放棄せざるを得ない事態にぶつかってしまったのである。
とはいえ、その事態は、氷河にとって決して不愉快なものではなかった。

つまり、氷河は、そのパーティ会場で、もろに彼好みの美少女に出会ってしまったのである。
その美少女は、完璧に氷河の好みに合致していた。
まだ若い。
どう見ても10代。
もしかしたら、出席するはずだった親の代理か何かでこの場にやってきたのかもしれない。
確とした上流社交界制度がある国でなら、社交界デビューにはまだ1、2年は早い歳。
氷河の目を釘付けにした美少女は、パーティのメインホールの一画にある椅子に、少々歳上の女性たちに囲まれて座っていた。

派手なイブニングドレスや宝石で着飾った女性たちの中では、目立って地味で控えめな姿。
そもそも彼女は、ドレスではなく淡い色のスーツを身に着けていた。
それも、タキシードですらない。
彼女が身に着けているのは、男性だったなら まずこの会場に入ることも許されなかっただろうシルエットの細いモード系のスーツだった。
マニッシュな出で立ちが他人への媚を排除していて、その第一印象は、潔癖もしくは清潔。
男装という特異な服装をしているというのに、強烈な個性を主張しているようには見えない。
むしろ、その印象はやわらかで優しげなものだった。

何より、少々 気弱げに映る眼差しが優しい。
誰かに似ている――と訝ったのは一瞬だけ。
氷河は、すぐに彼女に似た眼差しの持ち主を思い出した。
氷河がまだ幼い頃に亡くなった彼の母親――氷河の最愛の女性と同じ眼差しを、その少女は持っていたのだ。

氷河の母は、父親を早くに亡くした一人息子に深い愛情を注ぎ、それでもあり余る愛を世界のすべてに注いでいるような女性だった。
愛情があふれて、いつも愛を注ぐ対象を求めているような女性だったのだ。
その瞳に見詰められるたび、氷河は、彼女に愛されている幸福を思い、同じだけの強さをもって彼女を愛したいと願った。
まだ幼かった氷河は、母に対する自分の愛の力不足がひしひしと感じられ、しばしば切ない思いを抱いたものだった。

だから、わかったのである。
派手な女性陣に取り囲まれ、目許に浮かべている はにかんだような彼女の微笑が作りものめいていることに。
彼女は愛する対象を求めている。
今 彼女を取り囲んでいる女性たちは、彼女と彼女の愛を心から必要としていないから、彼女の微笑はそんなふうになってしまうのだ。

そんな彼女のいる場所だけが、氷河には輝いて見えた。
周囲が見えなくなった氷河は、そして、ふらふらと その少女のもとに引き寄せられていったのである。

「あら、どなた?」
彼女の周囲のご婦人方が見えなくなっている氷河の歩みは、見る者に奇異の念を抱かせるものだったらしい。
そんな氷河に、少女を取り囲んでいた婦人たちが一斉に視線を向けてくる。
「見ない顔ね。売り出し中の俳優がパトロンを探して、紛れ込んできたんじゃなくて?」
「パトロンではなく、パトロネスでしょう。あの美貌は女性向けよ。俳優より愛人向き」
「私、なってもいいわ。目の覚めるような美形じゃないの」

平生の氷河なら、仮にも一国の王子に向かって無礼な! と立腹していたかもしれない。
だが、自分はここでは一介の異邦人にすぎないということを氷河は自覚していたし、それ以前に、今の氷河には、他人が自分をどう思おうと、そんなことはどうでもいいことだったのである。
ただ一人の人を除いて。
氷河の目は、彼女たちの中央にいる美少女に釘付けになっていた。

問題の美少女は、妙に目立つ容貌の男――だが、見知らぬ男――が、自分に向かって一直線に――だが、夢遊病者のようにふらふらした足取りで――近付いてくることに困惑したらしい。
その上、周囲のご婦人たちを後ずらせるほどの迫力をにじませて 自分の目の前に立った得体の知れない男が、名乗りも挨拶もせずに、
「俺と結婚してください」
と言ってきたのだから、彼女が驚き、その瞳を見開いたのは当然のことだったろう。

口々に勝手な憶測で盛り上がっていたご婦人方が、氷河の口から その言葉が発せられた途端に しんと静まりかえる。
中の一人二人が、何か言いたげに口を開きかけたが、結局 彼女たちは何も言わなかった。
こういう特異な場面で、何を言えばいいのかがわからなかったのかもしれない。
あるいは、見知らぬ男にプロポーズされた当の本人を差し置いて、第三者が脇から口出しすることを避けようとしたのだったかもしれない。
いずれにしても、彼女たちは、氷河にプロポーズされた少女の対応を見極めてから、自分たちの行動を起こすことにしたようだった。

とはいえ渦中の人も、不意打ちのような氷河のプロポーズに即答は――否でも応でも――できるものではなかったらしかったが。
「あの、僕……あなたがどこのどなたかなのか――お名前も存じあげませんが……」
氷河にプロポーズされた少女が、戸惑った口調で求婚者に尋ねてくる。
「氷河」
「氷河……それがあなたのお名前?」

氷河は彼女に頷こうとした――実際に頷いたのだが、氷河は、それに対する彼女の答えや反応を手に入れることはできなかったのである。
これは真面目に驚いているような事態ではない――と気を取り直したらしい周囲の女性陣が、機関銃の一斉射撃のような勢いで脇から口を挟んできたせいで。
「しゅ……瞬ちゃんにプロポーズなんて、度胸のある男ね。大物!」
「お顔は綺麗だけど、判断力に問題ありね。声をかける相手を間違っているわ」
「有閑夫人の愛人志願なら、誘いをかけるのは私たちになさい。瞬ちゃんはだめよ」

求婚は神聖なもの。
冗談や悪ふざけでできるものではない。
真剣なプロポーズをしたばかりの男に愛人斡旋の話などを持ちかける行為など、侮辱以外の何ものでもない。
氷河は初めて その視線を周囲の女性陣に向け、そして、彼女たちを睨みつけた。
氷河に睨まれたご婦人方が、大仰に肩をすくめる。

「おお、恐い」
「で、瞬ちゃんにプロポーズできるあなたは、石油王の息子なの? お父様は金融王? 新聞王? それとも鉄道王なのかしら」
「それにしては見たことのない顔だわ。これだけの美丈夫なら、一度見たら忘れないはずよ」
一生を左右する大事を為したばかりの男に、彼女たちは口々に嫌味や好き勝手な批評を投げつけてくる。
氷河は、ほとんど反抗心でできた挑戦的な口調で彼女たちに自分が何者であるのかを知らせてやることになった。

「破産しかけた貧乏貴族の息子だ」
氷河のわかりやすい自己紹介に、ご婦人方がさざめくような笑い声を響かせる。
それは、どう見ても嘲笑だった。
ここは、美貌より財力と知名度が幅を利かせる場所であるらしい。
そういう価値観を持った者たちが集まっている場所。
氷河は不快の念を隠しきることができず――あえて隠さなかった。

「笑ったりしたら、お気の毒です。――酔ってらっしゃるの? 休憩室にご案内します。こちらに」
ムッとした氷河の怒りを静めようとしたのだろう。
氷河が求婚した人が、彼をからかう女性陣をたしなめながら、求婚者の手を取る。
その小さな手の 優しく やわらかい感触。
その手に触れた途端、氷河は、もしかしたら自分が求婚した人の取り巻きなのかもしれない女性陣への憤りを忘れ、何はともあれ手袋を外していてよかったと、そんなことを考えたのである。

「瞬ちゃん。いくら綺麗な男でも、彼のプロポーズを受けちゃだめよ!」
優しい手の持ち主に手を引かれ、その場を去ることになった氷河の背後で、なぜか ひときわ大きな笑い声が湧き起こる。
“瞬ちゃん”の優しく温かい手の感触に気をとられていた氷河は、彼女たちの嘲笑を不快と感じる余裕さえ持つことができずにいた。






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