「すみません。悪ふざけが好きなご婦人方なの。きっと、あなたがとても綺麗な人だから、からかわずにいられなかっただけ。え……と、初めてお会いしますよね。お名前、氷河というのは本名? 本当のご身分を名乗りたくないの? 貧乏貴族だなんて、そんな自虐的な自己紹介は ご自分をおとしめるだけの行為ですから おやめになった方がいいですよ」

氷河が求婚した少女が、求婚者を連れていったのは、パーティの招待客のために解放されていた休憩室ではないようだった。
メインホールで演奏されている楽の音も聞こえない小さな部屋には先客もおらず――つまり、氷河はそこで 彼の未来の花嫁と二人きりになれたのである。
人いきれで満ちていたホールより室温が低く、その分、空気に澱みがない。
布張りの椅子が数脚とライティングデスクがあるだけの殺風景な部屋に、氷河を気遣う声と言葉が響く。

その声の響きはひどく心地良く、いつまでも聞いていたい気分を氷河の上に運んできた。
温かい色の気遣わしげな瞳が、氷河を見上げている。
その瞳に魅入られたように、氷河は彼女から一瞬も視線を逸らすことができなかった。
彼女の声や言葉に比べたら自分の声や言葉には何の価値もないという思いのせいで、何事かを言う気にもなれない。

彼女は、口をきこうともしない見知らぬ男に見詰められていることに戸惑っているようで、おかげで氷河は、彼女の心地良い響きの声を望み通り聞き続けることができたのである。
「あの……彼女たちの言うように融資してくれる人をお探しなら、ご紹介しますけど……。どういう分野で活動されているんですか? 映画? 舞台? 作る方? 演じる方? それとも絵画や彫刻でしょうか」
「――」
「そうじゃなくて……お金持ちのご令嬢をお探しなら、ホールの方に何人も――」
彼女の瞼が悲しげに伏せられるのを見て、氷河は はっと我にかえったのである。
彼女の声や瞳の優しさに 無言で陶然としているばかりでは、彼女の内に誤解を生む危険があることに、やっと気付いて。

彼女の声の響きと眼差しを独占し、その心地良さに ただいつまでも浸っていたいと訴える自身の五感と心に、氷河は慌てて活を入れた。
「金持ちの令嬢を掴まえてこいと言われて ここに来たのは事実だが、真実の恋の前には、そんな命令など無意味、昇る太陽を無理に押さえつけようとするような愚挙愚行だ」
叔父の不愉快な命令を思い出し、氷河は忌々しげに舌打ちをした。
“不愉快”とは対極の空気をまとった氷河の恋人が、氷河の前で僅かに首を傾ける。

「真実の恋……って、どなたに」
「今、俺の目の前にいる人に」
「ぼ……僕、あなたとは5分前に会ったばかりですけど」
「そういえばそうだった。もう十何年もこの瞳の持ち主を探し続けていたので、その間いつもずっと一緒にいたような気になっていた。なに、真実の恋は これから二人で百年かけて育もう。俺は気が長いんだ。今は、とりあえず、君が俺以外の男と恋に落ちないことを約束してくれるだけでいい」

いったん言葉を紡ぎ始めると、それに伴って、氷河の思考は慌しく活動を始めた。
恋人の可憐な様子に 悠長にうっとりしてなどいられない現在の自分の状況に、氷河は遅ればせながら思い至ったのである。
二人は、今 出会ったばかり。
彼女はもちろん いずれ自分のものになるだろうが、用心のために、他の男に彼女を奪われないための防御策を講じ、できるだけ早く彼女との結婚の約束を取り付けなければならない――と、氷河は考えた。

せっかちなのか悠長なのかわからない氷河の言葉に、氷河の未来の花嫁が ぽかんと瞳を見開く。
彼女は氷河の真剣な表情に戸惑ったようだったが、それでも、氷河の求めにはすぐに頷いてくれた。
「それは約束できますけど」
「本当か?」
「ええ」
「よかった。やはり、君はついに巡り会えた俺の運命の相手なんだな」

無意識のうちに緊張させていた肩から力を抜き、氷河はつい短い安堵の息を洩らした。
氷河の運命の恋人にして未来の花嫁が、そんな氷河を見て、くすくすと小さな笑い声を洩らす。
彼女がなぜ笑うのか、氷河にはわからなかったのだが、彼女の笑顔は小さな白い花が揺れているように可愛らしかったので、氷河はその理由を問うことはせず、ただ目を細めることだけをした。

「名前は――瞬?」
「はい」
「瞬。自宅は近いのか? それとも、どこかのホテルに滞在しているのか?」
「そんなことを聞いてどうするの」
「自宅なら今夜は帰らずに俺のホテルに泊まってほしいし、ホテルなら、そこを引き払って俺のホテルに来てほしいと――」

運命の神の計らいで ついに巡り会うことのできた恋人たちが、その記念すべき日を離れて過ごすことなど、氷河には思いもよらないことだった。
具体的な愛の行為を性急に求めるつもりはなく――氷河はただ、たとえ一時でも瞬と離れていたくなかったのだ。
が、瞬の考えはそうではなかったらしい。

「そんなわけにはいきません。僕たちはまだ ほとんど見知らぬ者同士です」
「む……」
運命の恋の只中にあるというのに、瞬は恋の激情に支配されてはいないらしい。
瞬は非常に自制心に恵まれた人間であるらしかった。
この国にはこの国の常識や作法があるのだろうし、いずれC公国の公妃になる女性が軽率でないのは良いことである。
氷河は、瞬の名誉のために、瞬の意思を尊重することにした。

「失礼した。だが、じゃあ、どうすれば俺は明日以降も君に会えるんだ?」
「そうですね……。明日、待ち合わせをして、一緒に食事でもいかがですか」
軽率ではなくても、瞬がこの運命の出会いを喜び受け入れてくれているのは確かなことのようだった。
少なくとも、瞬は、氷河との再会を忌避しようとはしていない。
瞬の提案に一度頷いてから、氷河は首を横に振った。

「俺は、この国を知らないんだ。昨日初めて来た」
「外国からいらしたの? 僕がご案内しますよ」
「下々の者がするという、デートというやつだな。やってみよう。瞬となら楽しそうだ」
「しもじも……?」
氷河の物言いに、瞬が微かに首をかしげる。
だが、瞬はすぐに、氷河の名乗りが『貧乏“貴族”の息子』だったことを思い出したのだろう。
身分制度のないJ国の国民――つまりは平民――である瞬は、外国の貴族の子弟に小さな微笑を向けてきた。

「じゃあ、氷河さんの滞在しているホテルを教えてください。僕、明日の午後に参上します」
「瞬に迎えに来てもらうなど……。俺が迎えに行くのが筋というもの――ああ、そうか」
氷河は、言おうとした言葉の変更を余儀なくされた。
瞬は、かなりの慎重派らしい。
ほとんど見知らぬ人間である氷河に自宅や滞在ホテルを知らせるのは まだ時期尚早と、瞬は考えたのだろう。
これだけ慎重なのであれば身持ちも堅いに違いない。
氷河は、瞬の慎重さを好ましく思った。

「俺は、FSホテルにいる。フロントで『氷河』を呼べと言ってくれ。フロントには『氷河さん』はいないと言っておく」
「氷河――ですね。はい、氷河。そうします」
運命の恋人の名を、瞬が噛みしめるように繰り返す。
氷河は、そんな瞬の様子を見ることで満足し、この場は潔く引き下がることにしたのである。






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