なぜ来てしまったのか――瞬は自分がわからずにいた。
そうしようと思えば、二度と会わずに済ませることもできる相手。
出会いがしらに相手の名も確かめずに求婚してくる軽率な男が、まともな人間であるはずがない。
そもそも 彼が昨日のプロポーズを憶えているかどうかも怪しいというのに。

それでも、FSホテルのフロントで、瞬が『氷河』の名を出すと、『氷河』はその5分後には瞬の前に飛んできていた。
ブラックタイではなく、カジュアルな薄手のジャケットとトラウザーズ。
真冬だというのに、彼はコートも手にしていなかった。
本当にコートなしで外に出ようとする氷河に、寒くないのかと瞬が尋ねると、
「この国が暑いのか、瞬に巡り会えたせいで俺の心身が燃えているのか、俺自身にもわからないんだ」
という答えが返ってきた。
あきれ驚き、最後には苦笑して、瞬は氷河とホテルを出ることになったのである。

ホテルを出たところで、だが、瞬は、寒さを全く感じていないらしい氷河の肉体の強靭さに驚いてばかりもいられなくなった。
「考えてみたら、僕、案内できるほど外を知らなくて――ごめんなさい」
出会ったばかりの人間に速攻でプロポーズする男は慎重な男とは言えないかもしれないが、ほとんど知らない街を『ご案内します』と ためらいもなく言い切ってしまった自分は、彼以上に軽率な人間である。
そう、瞬は思った。
だが、瞬は、昨夜あのまま、次の約束もなしに彼と別れてしまいたくなかったのだ。

幸い彼は、有名な観光名所や洒落た店でのデートを望んでいるのではなかったらしく、瞬の無責任に嫌な顔ひとつ見せなかったが。
「瞬と一緒にいられるのなら、俺はどこでもいいんだ。そこの公園でも」
「車も帰してしまったの。昨日のパーティにいらしてた人だから、身元は確かだって言って」
『身元は確か』どころか、瞬は氷河の身元など知らない。
身元も不確かな人なのに――瞬は、氷河との外出に監視や護衛などという不粋なものを介在させたくなかったのだ。
車を帰した時には そんなことを考えていたつもりはなかったのだが、実はそうだったのかもしれない――と、瞬は今になって自覚することになった。

瞬は、そんな自分を訝ることになったのである。
運命の出会いや運命の恋などというものを、もちろん瞬は信じてはいなかった。
だが、自分の行動は、氷河の言う“運命”を信じている人間のそれになってしまっている。
彼と二人きりになりたいと――望んでいる人間のそれ。
そんなはずはないと自身に言い聞かせても、事実は動かし難かった。

「1年前だったら、ぽんとフェラーリくらいプレゼントできたんだが、なにしろ今 我が家は財政が厳しいので出費は控えろと、きついお達しが出ているんだ」
「僕、そんなものより食べ物の方がいいな。あのクレープ屋さん。いつもは駄目って禁じられてるの」
思いつきでそう言ってしまってから、瞬はそんな自分に胸を撫でおろしたのである。
自分は“運命”に逆らうことができずに、こんな軽率なことをしているのではない。
自分は、いつもは車の中から眺めていることしかできないものに接する機会を手にしたいだけ――氷河を言い訳に使って、束の間でも自由になる機会を得ようとしているだけなのだ――と。

実際、それは、瞬には憧れの食べ物だった。
瞬は、わくわくしながら、市民公園の中にある小さなクレープ屋の前に行き、生クリームとバナナとチョコレートのクレープを店主に頼んだ。
いかにも糖分と脂肪分で太ったような中年男の店主が、瞬に微笑み、次に氷河を見て顔をしかめる。とはいえ、彼は この寒空の下でコートも身につけていない男に顔をしかめたわけではなく――氷河が彼に差し出したカードに戸惑っただけだったらしい。

「現金じゃないと困るんだがなあ」
「このカードはどこの国でも有効なオールマイティカードだと言われてきたんだが」
「あ、僕、お金持ってます。こんなこともあろうかと用意してきました」
瞬が慌てて、肩に掛けていたポシェットから財布を取り出す。
氷河がきまり悪そうに肩をそびやかしたが、瞬は今はそんなことに頓着はしていられなかった。
カードでの支払いにこだわって、憧れの食べ物を食する機会を失うわけにはいかない。
瞬はクレープの代金を店主に渡し、そして、念願のものを無事に手に入れることができたのである。

「外でこんなものが食べられるなんて……!」
瞬は我知らず顔をほころばせた。
幸い 氷河はその笑顔でカードでの支払いができない不都合への腹立ちを忘れてくれたようだった。
「え……と」
“立ち食い”という言葉は知っていたが、さすがにそこまで行儀の悪いことはできない。
瞬は公園の一画にあったベンチに駆け寄ると、そこにすとんと腰をおろした。
氷河がその場にやってくるのを待ち、一度彼と顔を見合わせてから、手にしていた食べ物をぱくりと一口食べてみる。
決して上品ではなく、むしろこれこそまさにジャンクフードという甘さが瞬の口中に広がった。

「甘そう……だな。よくそんなものが食える――いや」
運命の恋人のそれといえども、瞬の食の好みは氷河には信じ難いものだったらしい。
彼は、世紀の珍現象を眺めるような眼差しで、瞬と瞬が手にしているものを見詰めてきた。
「ごめんなさい。僕、甘いものが好きで」
「いや、俺も嫌いなわけではない。……決して」

氷河がかなり無理をして そう言っていることは、嫌でもわかった。
端正な貌が引きつるように歪むのを見て、瞬はつい いたずら心を起こしてしまったのである。
自分の前に立つ氷河を見上げ、手にしていたものを氷河の方に差し出して、瞬は、
「この甘さに耐えられるかどうか、ためしに食べてみます?」
と、からかうように彼に提案した。

「ぜひ」
飛びすさって逃げるのではないかと思われた氷河が、意外や乗り気な様子を見せてくる。
「無理しなくても――」
『いいんですよ』という言葉を、次の瞬間、瞬は氷河に食べられてしまっていた。
瞬か差し出したクレープの前に身をかがめた氷河は、だが、クレープではなく瞬の唇に その唇を重ねてきたのである。
手にクレープを持っていたせいで、瞬は、彼を突き飛ばすこともできなかった。

食したいものを首尾よく食することができたらしい氷河は、瞬の唇から自分の唇を離すと、嬉しそうに笑って、
「甘いのもいい」
と言った。

だが、瞬は、彼と一緒に笑うことはできなかったのである。
食べかけのクレープを手にしたまま、瞬はその場で全身を硬直させることになった。
「瞬? どうかしたのか?」
そんな瞬を訝ったように、氷河が微かに首を傾けて、瞬の顔を覗き込んでくる。

氷河に問われて はっと我にかえり、そうしてから瞬は 緩慢な動作で自分の顔を俯かせた。
「氷河のお国では……何ということもないことなのかもしれないですけど、この国では、こういうことは、こんな軽率にしてはならないことです。僕、人にキスされたの、これが初めてです」
目の奥が熱くなってくる。
不意打ちのキスは、瞬には、出会った直後の氷河のプロポーズよりも衝撃的な大事件だった。

瞬の涙声に、氷河は大いに慌てたらしい。
俯いてしまった瞬の肩に手を伸ばし、だが、その手を瞬の肩に置くのをためらい、結局 氷河はその手を自分の方に引き戻した。
「そ……そんなに特別なことなのか」
氷河が当惑したように尋ねてくる。
間にクレープを置いた、ほとんど触れるだけのキスだったから、それは大したことではないと、氷河は思っていたのだろう。
氷河にとってはそうでも、瞬にとっては、これは十分に自分の人生における重大事だったのである。

無言でいることで、瞬は氷河の言葉を肯定した。
これは特別なこと、それこそ 運命の恋人によってのみ為されるべきことなのだ――と。
瞬の心を傷付けたのは、だが、キスという特別な行為それ自体ではなく、その特別な行為を、氷河がいかにも軽々しい気持ちでしたことがわかること――そうとしか思えないことの方だった。
そんなことが なぜこんなに悲しいのか――そんなことが なぜこんなにも悲しく感じられるのかはわからなかったが、瞬の心は今、確かに悲しんでいた。






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