俯いてしまった瞬を見おろし、氷河は、何やら真剣に考え込んでいた――らしい。 顔を伏せていたので、瞬はその様を自分の目で確かめたわけではなかったのだが、氷河が彼の周囲に生んだ深刻な空気のせいで、瞬はそれを感じとることができた。 氷河は、そして、熟考の末、この事態の素晴らしい解決策を思いついたようだった。 「悪かった。これがもし、婚約していない相手としてはならないことなのであれば、今すぐ婚約しよう。ホテルに母の形見の婚約指輪がある。叔父に持たせられたんだ。いったい叔父は何を考えているのかと腹を立てていたんだが、こういう時のためだったんだな。さすがは年の功」 これで万事解決と考えているらしい氷河に、瞬は大いに慌てることになった――突然 奪われたファーストキスに悠長に落ち込んでなどいられなくなった――のである。 「そ……そこまで特別なことじゃないんです……!」 俯かせていた顔をあげて、瞬は氷河に訴えた。 「? では、どの程度 特別なんだ」 「それは、その……『好きだ』って言って、許可を得てからじゃなきゃだめ……かな」 「それなら、俺の国と大して変わらない」 氷河が安堵の息を洩らしたのは、キスの相手と婚約しなければならない事態を回避できたからではなく、俯くのをやめた瞬の顔に、彼が心配していたほど深い傷心が浮かんでいなかったからだったらしい。 彼は、強張らせていた肩から力を抜いて、瞬に微笑みかけてきた。 「俺の軽挙のせいで、瞬がふしだらだなんて悪い評判が立ったら、ことだからな。俺は瞬を愛している。キスしてもいいか」 「……」 どう考えても、氷河は、瞬の常識やこの国の常識を理解せずに、瞬の言葉にだけ従おうとしている。 嬉しそうに そう尋ねてくる氷河に、今度は瞬が吐息することになってしまったのである。 もちろん、それは安堵が作った息ではなかった。 「氷河。昨日、僕が氷河に、他の男の人と恋をしないって、すぐに約束できた訳がわかる?」 「俺とおまえの出会いが運命の出会いで、これが運命の恋だからだ。キスしてもいいと言ってくれ」 「そうじゃなくて、僕は――」 「瞬は?」 間近に、明るい夏空のような氷河の青い瞳が迫ってくる。 この瞳を曇らせたくはない――と、その時 瞬は思った。 その上、この夏空の主は、奇跡のように端麗な容貌の持ち主で、瞬は自分が古い映画の登場人物にさせられてしまったような錯覚を覚えてしまったのである。 その世界には、運命の出会いや運命の恋が、ごく自然に存在するのだ。 目の前にいるのは、美しくなければ恋愛映画の主役たり得なかった時代のスクリーンか絵画から抜け出てきた王子様で、彼の心に偽りはない。 氷河といる世界は全く現実じみていない。 瞬は軽い目眩いに襲われた。 不思議な魔法に操られてでもいるかのように、唇が勝手に動く。 「うん……」 魔法などあるはずがないのに、どうして自分は彼に抗えないのか、どうして そんな答えを返してしまうのか、瞬は自分で自分がわからなかった。 氷河が嬉しそうに、先程よりゆっくりと瞬の唇に唇を重ねてくる。 あまり性急な振舞いはすべきではないと考えたのか、氷河のキスは今度も触れるだけのものだった。 それでも、瞬の心臓は、最初の不意打ちのキスの時より速く大きく波打つことになったのであるが。 悲しいからではなく、気恥ずかしさのために、瞬はまた顔を俯かせた。 氷河が心配そうにそんな瞬を見詰めてくる。 「俺が、この国の慣習に反することをしてしまったのなら、言ってくれ」 「そ……そうじゃないの。ちょっと恥ずかしいだけ」 「恥ずかしい?」 恋し合う者同士がキスすることを 当の恋人たちが恥ずかしく感じることはあり得ないと、氷河は信じているのだろう。 瞬に羞恥を感じさせているのは、自分たち以外の第三者の目に違いないと考えたのか、氷河はそれまで彼の恋人にだけ向けていた眼差しを、初めて瞬以外のものに向けた。 高級ホテルが立ち並んだ区域にある公園は整備の行き届いた安全な憩いの場でもあるのか、真冬の夕暮れ近い時刻だというのに、そこには それなりの数の人影があった。 特に都会の喧騒を好まない老夫婦らしい二人連れが多く、彼等のうちの幾人かが、否が応でも目立つ容貌の若い恋人たちに微笑むような視線を投げてきている。 「なるほど。瞬くらい可愛らしい恋人を連れていると、いやでも人目を引くことになるわけだ。彼等の気持ちはわからないでもないが、確かにこれでは瞬のように奥ゆかしい人間には居心地が悪いかもしれないな」 誤解したまま、氷河が瞬に手を差しのべてくる。 「場所を移動しよう。小さいが いい店があるそうだから」 「この国は初めてなんじゃなかったの?」 氷河の所作があまりに自然だったので――瞬は、ごく自然に彼の手に自分の手を預けてしまっていた。 不自然なほど自然な自分の振舞いに気付きはしたのだが、さすがに一度預けた手を引くことは気が咎める。 瞬は、氷河に促されるまま、その場に立ち上がった。 「俺をこの国に送り出した叔父が、この国には何度も来ていて――詳しいんだ。叔父の肥えた舌が合格点をつけた店のリストを俺にくれた。確か、この近くに――」 そう言いながら、氷河はジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出したのだが、どうやら彼はそれを使い慣れてはいないらしい。 国外に出るというので、当座のために持たされたものなのかもしれなかった。 「使い方がよくわからん。地図もくれたんだが――」 「あ、そのお店なら、僕知って――」 瞬が氷河の携帯電話のディスプレイを覗き込むと、そこには瞬も通い慣れたフランス料理の店の名と地図が映し出されていた。 それは、確かに小さいが格式は高く、美味と法外な値段で知られている店で、外国の貴族や王族、国内ではかなりの富裕層でなければ まず店に入ることを考えさえしない店だった。 破産しかけた貧乏貴族が気軽に入ることのできる店ではない。 氷河の家は、もしかしたら舌の肥えた叔父君の食道楽が過ぎて破産寸前なのだろうか? そんなことを考えながら、瞬は、車でしか行ったことのない その店に、氷河を案内することになったのだった。 その小さな店に今の自分たちの格好では入店を許されないかもしれないということに瞬が思い至ったのは、二人が目的の店に入ろうとした時だった。 氷河はネクタイをつけていないし、瞬自身もショートコートの下はカジュアルなブレザーだったのだ。 「いらっしゃいませ」 レセプションで顔見知りの支配人に声を掛けられても、瞬はすぐにコートを脱ぐことができなかった。 「ご予約は承っておりませんが、どちらがお連れ様になりますか」 ふさわしい服装での来店を求められることになるだろうと瞬は思っていたのだが、支配人はそんな素振りも見せなかった。 「入っていいの?」 瞬は、つい彼に尋ねてしまったのである。 「は?」 「氷河も僕もこんな格好で……」 「権力者にマナーはいらないと申しますから。お二人でしたら、お召し物より、そのお顔こそが身分証明になります。他のお客様も何もおっしゃらないでしょう」 これほどカジュアルな服装でこの店に来たのは、もちろん これが初めてだったのだが、それにしても この格式の高い店でよもやこんな対応をされるとは、瞬は思ってもいなかったのである。 顔が身分証明になると支配人は言うが、そもそも瞬は人に誇れるような身分を持ち合わせてはいなかった。 「どちらが連れというのは……」 「財力ではもちろん瞬様の方が上ですが、ご身分では氷河様の方が」 「氷河……を知ってるの」 「C公国の公子様――次期大公様でしょう。世界各国の王侯貴族のお名前とお顔は、すべてこの頭の中に入っております」 「C公国の次期大公 !? 」 どうやら、瞬に欠けている身分を持ち合わせてくれていたのは氷河の方だったらしい。 あっけにとられている瞬に、支配人は、 「お忍びなのでしたら、個室の方がよろしいですね」 と、にこやかに告げてきた。 |