食事は美味しかったと思う。
給仕は己れの職務を心得ていて、あの公園にいた老夫婦たちのように興味深げな視線を若い恋人たちに向けることもしない。
氷河に何を言われようと、どんな眼差しで見詰められようと、瞬はそこでは第三者の視線を気にする必要はなかった。
だから、瞬は、そこでくつろぎ快い気分でいられたはずなのである。
氷河の身分を知らされてさえ いなかったなら。

「氷河……って、王子様なの?」
食事を終えてから、瞬は、思い切って氷河に尋ねてみたのである。
「なに?」
いつ知れたのかを訝るように、氷河は瞬の問いかけに僅かに眉をひそめたが、彼は特段 自分の身分を隠そうとしているわけではないらしい。
むしろ きまりが悪そうに、氷河は瞬の前で両の肩をすくめてみせた。

「王子といえばいえるかもしれないが、我が国は小国で、おまけに今は貧乏国でもある。この国でいったら、地方都市の市長レベルだろう」
「王子様が、未来の王妃様を探しに この国にやってきたの?」
そうなのだとしたら、彼は大きな過ちを犯していることになる。
瞬は、今になって、氷河との再会を約した昨夜の己れの軽率を悔やんでいた。
なぜか心惹かれて――否、どんなに心惹かれていたのだとしても、自分は氷河に二度会うべきではなかったのだ。

「本当は俺は――キド家の令嬢にプロポーズしてこいと叔父に命令されて、ほとんど強制的に この国に送り込まれてきたんだ。だが、俺は瞬に恋をしてしまった。愛していない人を妻にはできない。俺は瞬が好きなんだ」
「……」
氷河は、この世で最も彼にふさわしくない人間に恋をしてしまっている。
瞬は、氷河の熱っぽい声と眼差しが、今は恐くてならなかった。

「俺は瞬を妻にする。金持ちの令嬢を掴まえる仕事は叔父に任せるつもりだ。こういうことは言い出した者がすべきだろう。俺は、金と一生を共にする気はない。瞬だけ。瞬だけだ」
「つ……妻……って、僕たち、昨日知り合ったばかりだよ。一緒にいたのは、昨日と今日を併せても、ほんの数時間――」
瞬は、氷河に冷静になってほしかった。
同時に、心のどこかで、冷静になってほしくないとも思っていた。
自分の心が、瞬はわからなくなりかけていたのである。
昨日と今日とで併せて ほんの数時間。
その短い時間で、自分までが氷河に恋してしまうなど、尋常ではあり得ないことのはずである。
そのはずなのに――。

「それは俺も夕べ考えたんだ。一目惚れなんて、軽薄な人間だけにできる軽率な行為だと、瞬に会う以前の俺なら考えていたはずだ。しかし、この気持ちはどう考えても恋としか思えない」
瞬の瞳を見詰める氷河の瞳は真剣そのもの。
瞬は、自分が氷河の前にいることが心底から恐ろしくなって、身をすくめたのである。
「この瞳の持ち主を探していた。母が亡くなってからずっと」
「あ……」
「それに、俺は今まで、1時間以上一緒にいて、気に障るところが一つもない女性に会ったことがない。不愉快なところを一ヶ所も見付けられなかったのは、瞬が初めてだ」

『それは氷河の好意が僕の短所を見えなくしているだけだ』と言いかけて、瞬はそうするのをやめた。
それでは、氷河の好意の存在を肯定することになってしまう。
氷河の恋は錯覚、もしくは大変な気の迷いだと、瞬は氷河に思ってもらわなければならなかった。
小国だろうが大国だろうが 国民に責任を負う立場の人間が、こんな恋をしてはならない。

「明日も会ってくれ」
人目のある公園にいた時には少しは打ち解けてくれているようだった瞬が、この店で二人きりになってから、どこかよそよそしい。
瞬の緊張と怯えを感じて、氷河は奇異の念を抱いているらしく、瞬に次の約束を求めてくる彼の瞳は、どこか不安げだった。
「何か先約が入っているのなら、5分だけでいい。どこにでも行く。愛していると一言 言えるだけでいいんだ」
無言で俯いている瞬に、氷河が食い下がってくる。

結局、瞬が彼の望みを聞き入れることにしたのは、会わずにいることで苦しむことになるのは自分の方だということが、瞬にも わかり始めていたからだった。
だが、次に会った時が最後の出会いになる――最後の出会いにしなければならない。
瞬は、泣きたい思いで、氷河に告げたのである。
「僕……キドの家にお世話になっているんです」
「キド家の?」
「明日、いらしていただけますか」
「どこにでも。瞬と会えるのなら、俺は飢えた虎の穴の中にでも喜んで入っていく」
「……」

会えさえすれば、恋人同士は より離れ難いものになると、氷河は信じているらしい。
それが氷河の望みであるらしい。
氷河の笑顔が、軽々しい不意打ちのキスよりも、今は瞬の胸を傷付けた。






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