夜ではなく昼間に見るキド邸は、国で最も立派な建造物が国立銀行であるC公国の王宮より、よほど瀟洒なものだった。 ただ、やはりそこに伝統や長い歴史のかもし出す重厚さはない。 瞬は、自分が『キド家にお世話になっている』と言っていたが、カミュの言っていたキド家の令嬢とはどういう関係なのか。 二人が親類や何らかの縁者の類なのだとしたら、その事実は瞬と自分の恋に良い方に作用するのか悪い方に作用するのか。 そんなことを考えながら、キド邸の客間で瞬を待っていた氷河は、やがてそこで思いがけない事実を知ることになったのである。 「氷河の叔父君が氷河に求婚するように言った相手は、多分、僕のことだと思います。僕、以前、C公国の大公様が非公式に この国にいらした時、紹介されたことがあるので」 昨夜は一晩眠ることができずにいたような思い詰めた目をして 氷河の前に姿を現わした瞬は、再会のキスどころか挨拶らしい挨拶もなしに、硬い表情で、突然 氷河にそんなことを語り始めたのである。 瞬の言葉は、氷河に、一度立ち上がったソファに再び腰をおろすことを忘れさせた。 「瞬が――カミュの言っていたキド家の令嬢? カミュに会ったことがある……?」 瞬の告げた言葉を芸もなく繰り返してしまった氷河に、瞬はまず横に首を振り、それからゆっくりと首肯した。 「半年ほど前です。あの時、カミュ大公はとても上機嫌で、甥御さんの自慢ばかりしていらっしゃいました。美貌で、お母様をとても愛してらして、思い込んだら一途で――。お母様が亡くなった時、まだ幼かったのに、『マーマがかわいそうだ』と言って、自分のためではなく、お母様のために泣くような子だったと」 「む……」 もしそれが、瞬の言う通り“自慢”だったのだとしても、そんな子供の頃の話を引き合いに出されて自慢されるのは、それなりに成長した男には かなりきまりの悪いことである。 「年寄りは昔話が好きなようにできているんだ」 少々ぎこちない笑みを作って場をごまかそうとした氷河に、だが、瞬は首を横に振って、穏やかに氷河の意図を封じてしまった。 「大公様はまだお若いでしょう。大公様はご自慢のつもりだったんでしょうが、その時のことを思いだされたのか、ご自分が涙ぐんでらした。優しくて――とても愛情深い方だと思いました」 「……」 そうなのだと、氷河も思っていた。 肉親への愛情、国民への愛情、国への愛情、生きることへの愛情――やたらとクールを気取りたがってはいるが、カミュの人生の指針はどこまでも愛情なのだと。 そう信じていたのだ。 カミュが国の財政を救うために金持ちの令嬢を落としてこいなどという、人の心を無視したようなことを言い出すまでは。 「優しくて愛情深い男が、肉親に、会ったこともない人間と金のために結婚しろなんてことを命じたりするものか」 「それは……」 それは多分違う――と、瞬は思ったのである。 あの人は本心からそんなことを望み考えるような人ではない、と。 そして、あの人があんなにも愛している人なのだから、自分は出会ったばかりの異邦人である氷河に急速に心惹かれ、好意と親しみを覚えたのだと、今では瞬にもわかっていた。 あの時――初めてカミュ大公に会った時、彼の話にもらい泣きをしてしまった瞬に、大公は驚いたような顔をして、だが、優しく、 『君の瞳は氷河の母親に似ている。愛するものを求めている瞳だ。どんなに深く強く愛しても、その愛をすべて受けとめてくれる人を求めている目。あれは母親という人種にしか持てない瞳だと思っていたのだが、それは私の認識違いだったらしい』 と、瞬に告げた。 『君のような人に甥の側にいてほしい』と、 『母親を亡くしてから、愛したくて愛されたくて、いろいろな意味で飢えている子なんだ。いつか必ず、甥に会ってやってくれ』と、大公は言ったのだ。 あの人が、財産目当てで肉親を自分の許に送り込んでくるはずがない。 瞬の、それは確信だった。 「大公様は、本気でそんな計算高いことを考えたのではありません。きっと違う」 瞬の断言は、氷河にはとても嬉しく喜ばしいものだった。 カミュはそんな卑劣なことを考える男ではないと、氷河は――誰よりも氷河自身が――本当は信じていたかったのだ。 だが、だとしたら――。 「叔父の言っていた令嬢とはおまえのことなのか? だとしたら、カミュは――俺は――」 カミュの計画通りに事が成ってしまうのは癪ではあったが、ここで無意味な意地を張って、この恋を失うことなどしたくはないし、できない。 叔父がそうなることを期待し、国がそうなることを歓迎しているのなら――何より、瞬がそうなることを望んでくれているのなら――氷河は叔父の意に沿ってやってもいいと思ったのである。 氷河の叔父が望み、国が望み、おそらくは瞬も望んでくれていること――を、だが、運命だけが望んでいなかった。 その運命の意思を知っている瞬が、気負いかけた氷河に切なげな瞳を向ける。 「氷河の叔父君が、氷河に求婚してこいと言った相手は僕のことだと思いますが、僕はキド家の令嬢ではありません」 「……どういう意味だ」 カミュは、キド家の令嬢に求婚してこいと氷河に言った。 カミュが求婚しろと言った相手と キド家の令嬢が同じ人ではないというのは、いったいどういうことなのか。 この国の言葉を自分は正しく理解できていなのかと、氷河は困惑することになったのである。 氷河に問われた瞬が、苦しそうに瞼を伏せる。 「僕はこの家の当主の孫です――といっても、お祖父様の亡くなった長男夫婦に迎えられた養子なんですが。それで、あの……氷河の叔父君は、僕のその――どちらかといえば柔弱に見えるこの姿のせいで 誤解されたんだと思いますが……」 瞬が、一度 言葉を途切らせる。 大きく深呼吸をしてから、覚悟を決めたように、その事実を口にした。 「こんなふうな姿をしていますけど、僕は男子です」 「……ダンシ?」 「ええ。だから、他の男の人と恋をしないという約束にも、僕はすぐに頷けたんです」 「……」 “男子”であるなら、瞬は確かにキド家の“令嬢”ではあり得ないだろう。 氷河は一瞬、ぽかんと腑抜けのように声と思考を失うことになったのである。 瞬のこの、花のような風情が“男子”のものだとは。 「しかし、カミュは――」 甥の好みを知り尽くしているカミュ。 甥が何を求め欲しているのかを知り尽くしている、氷河の唯一の肉親。 そのカミュが『おまえの好みにどんぴしゃ』というお墨付きを付した、極めつきの美 彼の甥が一目惚れすることになったのも納得できる。 瞬は、愛があふれている人、愛を注ぐ対象を求め続けている人、深く愛されることに恐れを覚えない人を探している人なのだ――母と同じように。 瞬は、母と同じ眼差しを持っている。 そして、カミュの甥は、誰かを愛したくて、誰かに愛されたくて――瞬を求め続けていたのだ。 母を失った時からずっと。 『この瞳の持ち主は男子だから』などという詰まらない理由で、この恋を思い切ることはできない。 自分の心がそう叫ぶのを聞いた時、氷河はすべてがわかったような気がしたのである。 カミュもそう考えたのだ――と。 カミュは、おそらく男子である瞬を令嬢と見誤ったのではない。 そんなことは彼にとってはどうでもいいことで――彼は気にもしなかったのだ、おそらく。 氷河には瞬しかいないと、その確信にだけ、彼は囚われていた。 もしかしたら、カミュには、国家存亡の危機の方が、甥に行動を起こさせるための方便にすぎなかったのかもしれない。 彼にとって、国の財政悪化は、甥に幸福を掴み取らせるために都合よく勃発してくれた吉事だったのだ。多分。 考えようによっては、瞬が男子で二人が結婚できないのは良いことなのかもしれない――と、氷河は考えたのである。 そうであればこそ、この恋が財産目当てではないことを、瞬に証明できる。 破産寸前の小国の公子が、キド家の令嬢に求婚したのであれば 決して証明できないことを、瞬が男子であるという一事は 容易かつ完璧に証明してのけるのだ。 「俺は金目当てじゃない。おまえと法的に婚姻関係を結んで、キド家と繋がりを持とうなんてことは毫も考えていない。俺はただ、おまえが好きなだけなんだ」 「だから、僕は男子なんです」 「俺は気にしない。俺はおまえを好きになってしまったんだ」 「氷河が気にしなくても――」 「おまえが気にするのか」 「そんなことは――」 ついに巡り会うことのできた運命の相手。 この出会いはそういうものなのだと感じているのは、今では氷河だけではなかった。 「なら、無問題だ。おまえがキド家の令嬢だったら、俺は財産目当て、おまえは地位目当てと言われるかもしれないが、男同士なら その心配はないし」 「そういう問題じゃないでしょう……!」 この出会いはただの出会いではないと感じているからこそ、自分も氷河を好きになりかけていることがわかるからこそ、瞬は氷河の楽観的な言葉がつらかった。 いっそ泣きだしてしまいたいほどに、つらかったのである。 「氷河は、お国に責任を負う立場なんです。C公国は今、大変な状況にあるんでしょう?」 「国民と共に耐えるさ。国が小さいということは、国民を説得しやすいということでもある。いざとなったら国外に出稼ぎにでも出る。C公国の次期大公という肩書きを担保にすれば、資金を融通してくれる人物や企業もどこかにあるだろう」 「それなら、それこそ お祖父様に――」 「瞬への俺の愛が純粋なものであることを証明するために、俺はキド家にだけは頼らない。キド翁の口利きはいらない」 「でも、それでは――」 「俺は今、命をかけた恋をしているんだ。おまえと離れることはできない。おまえもそうだと言ってくれ」 「氷河……」 瞬の中に、本当にそれは許されることなのだろうかという迷いがなかったといえば、それは嘘になる。 氷河の言うように簡単に都合よく 世界はこの恋を受け入れてくれるのだろうかという不安は、瞬の中に確として存在した。 だが、氷河の言うように、瞬もまた氷河と離れたくないと、離れたら死んでしまうと感じているのは紛れもない事実だったのだ。 迷い、目を閉じ、それからもう一度目を開けてみる。 瞬の目の前にある世界は、氷河の青い瞳だけだった。 だから、瞬は、心を決めたのである。 そうする以外に自分が生き続ける術はないのだと、他でもない瞬が身を置く世界が言っていた。 「僕は氷河が好きです。だから、あの……キスしてもらってもいいかな」 瞬の、瞬にしては大胆な言葉に、氷河がこれ以上はないほど明るく瞳を輝かせる。 瞬の腰を引き寄せて、キスをする前に、氷河は瞬に尋ねた。 「破産寸前の貧乏公国の次期大公でもいいのか」 「僕だって、一国の王子様とこんな――。お祖父様は義理堅くて重い立場にいる方だから、僕はお祖父様に勘当されてしまうかもしれないよ」 「そうなったら、俺が次期大公の権限で、我が国の国籍と名誉国民の称号を瞬に与えるから大丈夫だ」 この先 いったいどんな試練が二人を待っているのかはわからない。 だが、もはや離れて生きることができそうにない二人には、この恋を引き裂かれること以上につらいことはなかったのだ。 そうならないためになら、どんなことでもできる。 恋人の瞳の中に その決意のあることを確かめて、二人は互いを強く抱きしめ、そうして、“この国では特別な”キスを交わしたのだった。 |