「もうっ!」 瞬の機嫌は、すっかり斜めに傾斜してしまっていた。 スーツケースを扱う手も、つい乱暴になってしまう。 氷河のせいで、予定が30分は狂った。 瞬の予定を狂わせた当人は、まだ優雅にベッドの中にいることが、なおさら瞬の機嫌の傾斜を大きくする。 「俺が10代か40代かはさておいて、おまえは幾つなんだ」 「なぜそんなことを訊くの!」 そんなことを訊いてくるより先に、『ごめんなさい』の一言があってしかるべきではないか――というのが、瞬の考えだった。 が、人の考え方は人それぞれ。 結果的に瞬は非常に喜んだのだから、自分はむしろ良いことをした――というのが、氷河の認識らしく、彼の表情には全く悪びれた様子がない。 それどころか、瞬のご機嫌斜めは ただの“振り”で、その意味するところは実は照れ隠しなのだと、彼は考えているようだった。 氷河の考えていることがわかるから、瞬は業腹なのである。 氷河のうぬぼれの勝った憶測を、必ずしも思い違いと言い切れないことが。 瞬のジンレンマに気付いているのかいないのか、氷河はどこまでも太平楽だった。 「おまえの顔と身体は、それこそ10代の子供のそれだ。綺麗で華奢で」 「氷河に付き合える程度には鍛えてあります!」 「しなやかで強くて――だが、やはり子供のように細い。去年知り合った時の自己申告では22だったが、マイナス10歳でも十分に通るぞ」 「僕を中学生にする気? 僕は、これでも会社では責任ある立場にあるの。同居人に寝坊させられたせいで仕事に遅れるなんてことは 許されないくらいにはね。フレックス制でなかったら、僕は今頃とっくに退職勧告を受けてたよ。もう、毎朝が戦いなんだから!」 そんな毎日が楽しくないわけではない。 ――という本音は、口が裂けても言うことはできない。 氷河は、自分に都合のいい瞬の発言は どれほど些細な呟きでも決して忘れないという、驚異的記憶力の持ち主だった。 迂闊に言質を与えると、彼はいつまでもその言葉を盾にして瞬を縛りつけようとするのだ。 「オランダの会社と合弁会社を設立した企業のシステム導入に立ち会わなければならないんだったな」 「僕が今担当している会社は、海外に支店を出すのは、これが初めてなの」 特に金融企業のネットワークシステムデザインとインフラ構築を主な業務にしている――と、氷河には言ってある。 それにしても若すぎる――と氷河に疑われた時には、 「生徒は平等に扱わなければならないという思想に凝り固まっている日本とは違って、海外の学校では大抵 飛び級が認められているんだよ」 と言って、彼の追及を逃れた。 氷河の方は、その見るからにコーカソイドな外見にもかかわらず、日本の教育制度にどっぷり浸かってきたらしく、大学に入るまで飛び級の恩恵に浴したことはない――という話だった。 いずれにしても、そういう経緯で一般の学生より数年早く社会に出たことに その点では、氷河も似たような仕事に就いている――らしい。 もっとも彼は、瞬のように直接システム開発に関わっているわけではなく、人件費の安いインドや中国、ベトナムに構えた現地開発法人と日本社の橋渡しを行なうブリッジSEをしており、今回の出張先もインドのデリー ――らしかった。 瞬は、氷河から彼の仕事の詳細どころか、彼が籍を置いている会社の名前さえ聞いていなかった。 この手の業務には企業間の守秘義務契約が締結されていて、何気なく洩らした業務内容が、場合によっては契約違反やインサイダー取引になりかねない危険がある。 同じような仕事をしている(ことになっている)だけに、二人は慎重にならざるを得ない立場にあったのである。 それ以前に――瞬と氷河は、互いに互いの社会的な地位や経済状況を考慮しなければならないような関係を築くことを意図して同棲を始めたわけではなかったので、そんなことを知る必要はなかったのだ。 1年ほど前、深夜の駅のホームで偶然出会い、瞬く間に恋に落ち、互いに他に係累がないことを知るや、二人は一緒に暮らすようになった。 一度ベッドを共にしたのが運の尽きで、瞬は氷河のベッドから出してもらえなくなった――というのが実際のところだったのだが、ともかく知り合って1週間後には、瞬は自分の部屋を引き払い、氷河のマンションに荷物を運び入れていたのだ。 そして、その時から、瞬の終わりのない朝の戦いが始まったのである。 「ネットワークシステム運用って、稼働やチェックに適したタイミングがあるのか、僕たちの出張って、割りと日程が重なるよね」 氷河の出張が今日から1週間、瞬の出張は明日から5日間。 そう告げる瞬の口調が少し和らいだのは、氷河が起床し身支度を整えてくれたから――飛行機の離陸の時間に間に合いそうだったから――だった。 「じゃあ、行ってくる。1週間後に」 到底ビジネススーツとは言い難いが、とりあえずスーツと呼べるものを身に着けた氷河は、ビジネスマンというより、どこぞのギョーカイ人にしか見えなかった。 が、裸でいられるよりは はるかにましである。 「行ってらっしゃい」 出立が明日の瞬は、ここで氷河を送り出すことになる。 当然のごとくにキスを求めてくる氷河に、瞬は気乗りしない様子で顔を上向かせた。 まるで昔の米国テレビドラマの新婚夫婦の朝のお見送りイベントのようだと、内心で苦笑しながら。 ドラマの新婚夫婦と違うのは、玄関先のキスで、氷河の舌が瞬の舌をまさぐり、氷河の脚が瞬の膝を割り入ってこようとすることくらいのものだった。 「またベッドに行きたくなってきたんだが――」 「そんなの無理に決まってるでしょ! 早く行って!」 さすがに これ以上 氷河の我儘を許すことはできない。 瞬は、氷河の胸を、力を込めて自分から引き離したのである。 服を着けている時には、おおむね瞬の方が強く、偉い――というのが、二人の力関係だった。 「追い出す気か。俺が側にいないのをいいことに浮気なんかしたら、俺はおまえを殺してやるぞ」 「氷河こそ、出張先で僕以外の人に手を出したりしたら、覚悟してて」 険しい目をした瞬にそう言われることが、氷河は嬉しいらしい。 独占欲が強い氷河は、独占されたがりでもあるのだ。 「清く正しい出張を心掛ける」 まなじりを吊り上げた瞬の脅しの言葉に 嬉しそうに微笑しながら そう言って、氷河はやっと玄関から出ていってくれたのだった。 ベランダに移動し、氷河の車がマンションの門を出るのを確認してから、瞬は真顔に戻ってリビングのソファに腰をおろしたのである。 「ほんと、あの常人のものとも思えない体力は、アテナの聖闘士に推薦したいくらいだよ」 聖域への“出勤”の指定日時は、2日後の早朝。 時間はまだある。 氷河の気配が消えた途端に妙に広く感じられるようになったマンションのリビングで、瞬は、その8割が罪悪感でできている溜め息を洩らすことになったのだった。 瞬は、本当は、氷河に言ってある仕事とは別の仕事を生業としていた。 今回の出張も、行き先はオランダではなく、瞬の勤務先の本社(=聖域)のあるギリシャ。 そこには女神アテナと瞬の直接の上司である黄金聖闘士が一人いて、瞬に今回の任務の指示を出してくれることになっていた。 直接の上司である乙女座の黄金聖闘士以外の聖闘士を、瞬は知らない。 同僚は他にも大勢いるらしいし、いわゆる聖域株式会社の中間管理職である黄金聖闘士も、彼等が守護する宮の数通りだとしたら、乙女座の黄金聖闘士の他に11人はいるのだろう。 ――と、瞬は察していた。 が、その誰とも、瞬は直接言葉を交わしたことはなかった。 聖域内で、牡羊座、獅子座の黄金聖闘士とおぼしき者たちの姿を垣間見たことがある程度である。 アテナが聖闘士ひとりひとりに指示を出していられるのだから、聖域株式会社の正社員が100人以上いることはないだろうが、その徹底した秘密主義を、瞬は時折スパイ組織のようだと思うことがあった。 いずれにしても、瞬の真の勤め先は、社員同士が協力し合って一つのプロジェクトを成し遂げていくような和やかな職場ではなかった。 |