「北欧の神の意をんでいると主張する者が、聖域の転覆を謀っているらしいの。彼は、最近 北方の気候が狂い出したのは北欧神話の主神オーディーンの怒りの現われだという話を流布して、彼の意に従わない者たちの抹殺を実行すると公言しているわ。一種の偽救世主といったところかしら。彼の威迫を真に受けた北欧の民たちは、神の怒りから逃れるために、彼の居城であるワルハラ城に集結しつつあるとか」
アテナの憂い顔は珍しい。
彼女に、たとえ一瞬でもこんな表情を浮かべさせるものを、瞬は心の底から憎んだ。

「狂気の沙汰です。だって、最近の北欧の気候の急変って地球温暖化のせいでしょう? 神の怒りだなんて こじつけもいいとこ、それで悪意のない民を巻き込むなんて言語道断です……!」
瞬もまた、彼にしては珍しく気色ばむ。
瞬の中に憤りを生むことになった原因が自分の憂慮の表情だと気付いたらしく、アテナはすぐに その顔に微笑を浮かべた。

「まあ、でも、確かに、この地球の人口が北欧の民を除いて60億人ほども減ったなら、地球温暖化問題は一気に解決することになるでしょうね」
にこやかに微笑みながら恐ろしいことを言うアテナに、瞬は思わず顔を強張らせることになったのである。
が、瞬は、そんなふうでいるアテナの方が好きだった。

「もちろん、そんな謀略を許すことはできませんから、聖域は全力でその阻止に当たりますけど」
「はい。でもどうやって」
瞬が尋ねると、アテナは自信ありげな笑みを目許に刻んだ。
「オーディーン神を目覚めさせると言われているグングニルの槍が、ワルハラ宮の奥に隠されているそうなの。それを聖域で奪取します」

「槍を奪う? それだけですか?」
「その槍が、狂信の源であり、象徴でもあり、具現でもあるのよ。キリスト教の教会から十字架が奪われたら、その教会は神の守護を受けていない教会と見なされるでしょう? それと同じよ。いわばご神体を守り切れなかった教主の威信は地に落ち、彼に従う者たちも少しは冷静になるでしょう。神の怒りを信じただけの者たちと全面戦争はしたくないの」
「ええ、アテナのお気持ちはよくわかります」
瞬とて、無辜むこの民たちまでを傷付けるようなことはしたくない。
槍を1本盗むことで事態が収拾するというのなら、それにこしたことはなかった。

「ただし犠牲者をゼロで済ますことは無理そうなの。北欧の民を扇動している教主――ドルバルという名なのだけれど――彼には神闘士と名乗る特別な力を持った兵が何人かいて、彼等を倒すのがあなたの役目。グングニルの槍の奪取の仕事には他の者を配してあります」
「僕の務めは、どちらかというと陽動――ということですか」
「ええ、お願いね。神闘士たちは、自身に正義があると信じているから、おそらくかなり強いと思うわ」
「はい」

自分たちの神に従わない人間はすべて滅びるべきだという考えのどこに正義があるのか――と思わないでもなかったのだが、瞬は、その意見をアテナの前で口にすることは控えた。
人間の歴史を振り返れば、同じような過ちと戦いを、他の宗教を信じる者たちも――今 ドルバルの標的にされている側の人間たちも――繰り返してきた――あるいは現在進行形で繰り返している。
アテナほどの寛容性を持った神と その信者の方が、むしろ信仰者としては異端なのだ。

アテナが玉座の間から立ち去ると、瞬の前には、今度は、彼に詳細な指示を与える役目を負っている乙女座バルゴのシャカが立つことになった。
前置きも挨拶もなく、乙女座の黄金聖闘士が 瞬に彼の任務の詳細を語り始める。
「この件では、他にも10名ほどの聖闘士が駆り出されている」
アテナの前での瞬の沈黙を良い判断とみなしたらしく、彼は珍しく渋面ではなかった。

瞬は、彼の指示を聞きながら、ふと、小さな苦笑を洩らしてしまったのである。
「何がおかしい。私の指示に何か奇妙なことがあったのかね」
嘘か真かは知らないが、光速の拳も見切る視力を持つという黄金聖闘士は、さすがに青銅聖闘士の小さな苦笑を見逃さなかった。
瞬は、慌てて首を横に振ったのである。
瞬が笑ったのはシャカの指示におかしなところがあったからではなく、彼にそんな指示を受けている自分自身が急に滑稽なものに感じられてしまったからだったのだ。

「僕、同居人にネットシステムの構築の仕事をしてるって言ってるんです。僕が こんな究極の肉体労働をしてるなんてことを、彼が知ったら――ううん、言ってもきっと信じてもらえないかな。彼は、中学生みたいに細いって言って、いつも僕を馬鹿にしてるから」
「君の最大の武器は、到底 肉体労働従事者とは思えない、その顔とその細い身体だ。子供の振りができるその顔と、大人の振りができる 学者顔負けの知能」
「子供の振りと大人の振りって……。僕はいったい子供ですか、それとも大人?」
「そういえばいくつになったんだ。さすがに10は超えたのか」

「……」
あまりにも 頓珍漢なシャカの質問に、瞬は軽い目眩いを覚えることになったのである。
自分の可愛い(はずの)部下の年齢すら知らない上司。
彼は、実力主義・成果主義を極めている“聖域株式会社”だからこそ存在が許される中間管理職だった。
これが日本の企業だったなら、彼は社員管理の能力皆無者として即座に平社員か専門職に降格・異動の処分を受けていることだろう。

「年齢詐称のしすぎで、本当の歳なんて忘れてしまいました」
「そうか」
シャカの素っ気無く短い返事――は、彼の関心が、瞬の実年齢などではなく、今回のプロジェクトの成否にのみ向いていることの表われだったろう。
滅多に感情らしい感情を見せることのない彼の顔に何らかの感情を浮かべさせようと思うなら、その人間は自分に課せられた任務を完璧に遂行しなければならない。
その時にだけ、彼は“満足する”という感情を彼の部下に見せてくれるのだった。






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