離れたくないと、瞬がどんなに願っても、二人の人間は最後には個々の人間に戻らないわけにはいかない。 これまでの瞬なら、その残酷な事実は、二人が再び一つになるために必要な通過儀礼にすぎないのだと思うことができていた。 “再び”が確実に訪れる未来ではないと知った今は、自分の内から氷河が身を引いていく行為が、瞬には ひどく無情な行為に思えてならなかった。 氷河と離れることができないのなら――アテナだけを選ぶことができないのなら――氷河を寝返らせることは可能だろうかと、瞬は考えたのである。 離れられないのなら、氷河をアテナの側の人間にしてしまえばいいのだ――と。 「平和って大切なことだよね……?」 離れてしまった氷河の肩に額を押しつけて、瞬は小さく呟いた。 「ん? ああ、そうだな」 こんな時に瞬は何を言い出したのかと思わなかったはずはないのに、氷河が瞬に賛同してみせる。 「氷河は……人間を醜悪なものだと思う?」 「美しいとは言い難い生き物だろうな。どう考えても“醜悪”の部類だろう」 「人間が滅んでしまった方が世界のためだと考えたことがある?」 「ないでもない」 「……」 それは、アテナの考えに真っ向から対立する考えだった。 アテナの掲げる“希望”とは対極にある“虚無”である。 氷河の答えに、瞬の心は沈まないわけにはいかなかった。 黙り込んでしまった瞬の肩を抱き寄せるために、氷河がその手を瞬の髪にのばしてくる。 「実際、絶望しかけていたんだ。おまえに会うまでは。人間なんてものは、現在の自分のことしか考えていない利己的な動物だと。おまけに、世界全体を俯瞰できず、世界の未来を想像することもできないほど頭が悪い。そのくせ、自分は利口なつもりでいて、口では嘘や綺麗事ばかり言う。人間てやつは、全くどうしようもない生き物だ」 「氷河……」 「だが、俺は おまえに会ってしまった。おまえは頭がいい上に、綺麗で善良で優しくて――。俺たちが初めて会った時のことを憶えているか?」 「うん……」 忘れるはずがない。 瞬は、その時のことを、不思議なほど はっきりと憶えていた。 もっとも瞬は、その時には、二人の出会いに さほどの意味があるとは思わなかったのだが。 にもかかわらず、二人の出会いは、時を重ねるにつれ瞬の中で より鮮やかな出来事となり、そして、意味を増していったのだ。 冬の――夜の駅だった。 終電が近い時刻。 今日のうちに家に帰り着きたい人々で、駅のホームは混み合っていた。 したたかに酔っているらしい一人の若い女性の足がふらついて、彼女はホームの端に立っていた中年の男性に倒れ掛かり、突然 背後から力を加えられた男性客は、我が身を支え切れずに ホームの下に転落した。 辺りが怒号と悲鳴で騒然となったのは、男性の転落と同時に、まもなくホームに電車が入ってくるというアナウンスが駅構内に響いたからだった。 二人から20メートルほど離れた場所にいた瞬は、家路を急ぐ人々の叫喚と ホームの端にへたり込んでいる女性の姿を見て事情を察するや、すぐに線路の上に飛びおり、転落した男性の少々メタボ体型の身体を抱き起こした。 「――無謀にすぎると思ったんだ。あの男、体重も体積も、おまえの倍はあった」 「倍だなんて、まさか」 そう言って 瞬は笑うが、あの時、本当に氷河の目にはそう見えたのだ。 瞬に一瞬遅れて その場に駆けつけた氷河が ホームの下にいる者に手を差しのべた時、氷河は既にメタボ男の救出は諦めていた。 だというのに、瞬は、氷河の手に己れの手ではなくメタボ男の身体を委ねてきたのだ。 まさか委ねられた男を振り捨てるわけにもいかず、氷河はどう見ても90キロを超えているその男の身体を、舌打ちをしながらホームの上に引き上げた。 電車が駅のホームに入ってくる。 怒鳴り叫ぶしか能のない他の客たちが 次に起こる惨事を予感して後ずさりを始める中、氷河は命拾いをしたメタボ男の身体を脇に放り出し、すぐに線路の上にいる瞬に手を差しのべた。 ――のだが、そこに既に瞬の姿はなかったのである。 その時には瞬は、信じられないほどの身軽さと素早さで、自力でホームに上がってしまっていたのだ。 その間、1秒足らず。 重い荷物を預けられたせいで その瞬間を見ることができなかった氷河は、その僅か1秒の間にいったい何が起こったのかが理解できず、呆然とすることになった。 ホームに電車が入ってくる。 定位置に停車した電車は、何も知らない乗客たちをホームには吐き出し、彼等は乗り換えのために足早に出口の方へと群れを成して移動を開始した。 ホームにいた客たちも、いい話の種ができたというような顔をして、やってきた電車の中に我先に乗り込んでいく。 その ごったがえしの中で、氷河は、一瞬 瞬の姿を見失った。 その一瞬の焦慮と、再び瞬の姿を見付けることができた時の氷河の安堵の思い――は、すぐに驚きへと変化していった。 瞬は、ホームの端にへたり込んでいた騒ぎの元凶の女性を壁際のベンチに移動させ、 「大丈夫。間に合いましたよ、大丈夫」 と声をかけながら、あやうく人の命を奪いかねない事態を引き起こしたことに自失している彼女を落ち着かせようとしていたのだ。 その時、他の客たちはただ阿呆のように呆然としているだけだったというのに。 そして、大事にならなかったと知るや、さっさと やってきた電車に乗り込んで帰宅作業に勤しみ始めたというのに。 「あの騒ぎの中、メタボ男を助けようとしたことより、阿呆な酔っ払い女のケアにまで気がまわるおまえに、俺は呆れて、驚いて、感動したんだ。瞬時の判断力、俊敏さ、救いようのない阿呆にまで惜しみなく示される優しさ。この世界にいる人間が皆おまえのように利口で優しい生き物だったなら、俺も醜悪な人間に絶望せずに済むのにと思った。おまえは見れば見るほど美形だったし、理想の人を見付けたと思った」 「氷河……」 「その上、寝てみたら理想以上だった」 「……」 氷河は、アテナに敵対する者――地上の平和と安寧を憎む者――のはずである。 だが、嬉しそうに二人の出会いを語る氷河の瞳は、大切な宝物を探し当てた子供のように 明るく喜びに輝いている。 「おまえだけは守ってやる。何があっても。たとえ全人類が滅びるようなことがあっても」 「僕は……」 アテナの聖闘士でなかったら、その言葉を無邪気に喜ぶこともできていたかもしれない。 だが、瞬はアテナの聖闘士で、瞬が守りたいものは、我が身などではなく、氷河が醜悪だと言う人間の方だったのだ。 |