天国と地獄






「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生をうけ、滅せぬもののあるべきか」
――というのは、かの織田信長が好んだというので有名な『敦盛』の一節。
これを「人間の寿命はせいぜい五十年ほどで、それは夢幻のように儚いものである」という意味だと思っている人が多いようですが、それは大変な間違いです。

『人間』は『にんげん』ではなく『じんかん』と読み、人間界のこと。
『天』とは天上界、すなわち神々の住む世界のことで、『下天』もしくは『化天』は、天界の最下層にある天の名です。
つまり、この『敦盛』の一節は、人間の寿命の短さ儚さを詠っているのではなく、「人間世界での50年は、天界ではほんの短い時間にすぎず、それは一瞬の夢のようなものにすぎない」と詠っているものなのです。

このお話は、神々の住む その天上界から始まります。

その日、天上界のある場所で、神様たちは互いに頭を突き合わせ、侃々かんかん諤々がくがくと意見を戦わせていました。
ある人間が若くして死んだのですが、その人間の死後の処遇をどうしたものかと、神様たちは甲論乙駁していたのです。
死んだのはアテナの聖闘士。
地上の平和と安寧を守るために戦い続け、大勢の“敵”の命を奪った人間です。

どうして神様たちがそんなことで迷うのかと、不思議に思うでしょう?
これまでだって、アテナの聖闘士が死んだことがなかったはずはありません。
同じアテナの聖闘士なのですから、前例にならって、天国にでも地獄にでも送ってしまえばいいだけのこと、何も悩む必要なんかないではないか――と。

そう考えるのは至極ご尤も。
ですが、神様たちには神様たちの事情と都合というものがあったのです。

人間界にはたくさんの宗教があります。
生前の行ないを鑑みて、死者の居場所を天国と地獄に分けてしまう宗教。
死んでしまったら どんな人間も同じと考えて、一律に“死後の世界”に送り込む宗教。
転生を許して、死者を再び人間界に送り出してしまう宗教。
それは本当に種々様々。
そして、これまで天上界には、それぞれの宗教ごとに人間の死後の世界もありました。

けれど、神様たちはある時 考えたのです。
死後の世界が宗教ごとにたくさんあるから、人間の価値観や正義もたくさんあって、そのせいで、生きている人間界の争いは一向になくならないのではないかと。

死後の世界は、また別の問題も抱えていました。
たとえば、キリスト教では罪人で地獄界のいちばん深いところに墜ちるとされるような人間が、たまたまイスラム教徒であったために天界の特等席に着くというような事態が、死後の世界では ままありました。
もちろん、その逆もありえます。
これはどう考えてもおかしなことですよね。
不完全な生き物である人間が営む世界でなら、宗教ごとに正義と悪が異なるのも致し方ありませんが、絶対の存在である(はずの)神が支配する天上界でも価値観や判断基準が複数 存在するなんて、人間たちが神様不信になりかねない事態です。

それより何より、いちばん大きな問題は、昨今の特定宗教を信じない人間の増加でした。
そういった無宗教の人たちの死後の処遇をどうするか。
無宗教の人たち専用の死後の世界を作ったとして、その世界を誰が管理するのか。
それから、これは特殊な例ですが、日本人のようにカオスな宗教観を持つ者たちの死後の扱いもなかなかの難問でした。
神社で拍手を打ち、クリスマスを祝い、お葬式は仏式の日本人は、いったいどの宗教に属する者たちなのでしょう?

そんなふうに、死後の世界はたくさんの矛盾と問題を抱えていました。
そこで、神様たちは、話し合いの結果、人間の死後の世界の統一を図ったのです。
過去の死者たちの処遇は現状維持。
新たに死を迎えた人間たちは、統一後の死後の世界に送られることになりました。

統一後の死後の世界は3つに分かれていて、天国・煉獄・地獄があり、それらを更に3ランクに分け、全部で9ランク。
天国の一丁目、二丁目、三丁目、煉獄の一丁目、二丁目、三丁目、地獄の一丁目、二丁目、三丁目。
自分の命を終えた者たちは、死者の国にやってくると、生前の信教にかかわらず、統一後の死後世界の9つの界のいずれかに配されることになったのです。

死んだ者が9つの界のどこに行くのかは、神様たちの合議制で決めることにしました。
死後の世界を一つにするだけならともかく、今更 人間界の宗教の統一を図ることはほぼ無理な話でしたから、各宗教の神様たちが それぞれの視点から 死者の生前の行ないを総合的に判断して、その人間の死後の居場所を決めることにしたのです。

とはいえ、人間はその大部分が、ほどほどに良いことをほどほどに行ない、ほどほどに悪いことをほどほどに行なって、その生を終えるもの。
死んだ者たちは、大抵は、天国と地獄の間にある煉獄に送られることになるのでした。

ところが、今回 その生を終えて死後の国にやってくることになったのは、アテナの聖闘士。
死後の世界が統一され、神様たちの合議制で死後の人間の処遇を決めることになってから初めて迎えたアテナの聖闘士の死。
神様たちが頭を突き合わせて悩むのは仕様のないことだったのです。

そのアテナの聖闘士は、人の命を奪いました。
どの宗教でも共通して罪悪とされている、他者の命を奪うという大罪を犯したのです。
けれど、そのことによって、多くの人間の命が救われたのも事実。
彼等は孤児でしたので、幼い頃には清貧に耐え、贅沢や貪欲の罪とは無縁でした。
けれど、アテナの聖闘士になってからは、グラード財団の庇護を受け、見る人が見たなら贅沢としか言いようのない 何不自由のない暮らしを享受してきました。
そして、実は、今回死んだ聖闘士は、自分の仲間でもある同性を恋人にしていました。
これは、キリスト教などでは大変重い罪です。
けれど、恋人に対しては完全に忠実で、近来稀に見るほどの貞節を実践してみせた人間でもありました。
その聖闘士は、神を倒したことがありました。
これは神という至高の存在を冒涜したことになります。
神様たちにとっては許し難い大罪です。
が、その者は神を信じ、神のために戦った人間。
彼の死も、その戦いのさなかのことでした。
つまり、彼は、敬虔な神の信徒でもあったのです。

そんなふうに、今回死後の世界にやってきた人間の功罪が極端すぎるせいで、神様たちは大いに悩むことになったのです。
ほどほど・・・・のことに縁のなかった人間を、天国と地獄の中間層である煉獄に送るのも妙な話。
ですから、神様たちは、「じゃあプラマイゼロで真ん中!」と、彼の処遇を安直に決定することもできませんでした。

しかも、彼が信じた女神アテナは、その発言権を保留、場合によっては放棄すると、事前に他の神様たちに申告していたので、これがまた神様たちの心を惑わせることにもなったのです。
へたな判断を下せば、神様たちは、知恵と戦いの女神に鼻で笑われることになるでしょう。
仮にも『神』と呼ばれる存在が、たとえ神によってでも馬鹿にされるわけにはいきません。
神個人のプライドというより、その神様を崇めている多くの信者たちのために。

散々話し合い、大揉めに揉めたあげく、結局 神様たちはその決定を先送りすることにしました。
正確には、アテナの聖闘士としての彼の人生の是非を判断することを諦めました。
とはいえ、彼をそのまま放っておくわけにはいきませんから、彼の死後の処遇を決めるために彼に新しい判断材料を提供してもらおう――ということになったのです。
神様たちの考えた方策は、「彼をもう一度、アテナの聖闘士としてではなく、普通の人間として生きさせてみよう」というものでした。

これから一定の期限つきで彼を生き返らせてみて、彼がその期間にどういう行動をとるのかを見極め、その上で彼の死後の処遇を決めることにしたのです。
彼がアテナの聖闘士でなかったら、どういう生き方をしたのか。
神様たちは、それを確かめてみることにしたのでした。

ただし、これは本当に異例なことなので、神様たちは、一時的に生き返る彼に一つの禁忌を課すことにしました。
これはまあ、一度異世界に接した者へのお約束といえるでしょう。
乙姫様は浦島太郎に『玉手箱を開けてはいけない』という禁忌を与え、雪女は、命を助けた若者に『雪女に出会ったことを誰にも言ってはいけない』という禁忌を課しました。
知ってはならぬことを知り、見てはならぬものを見てしまった人間を無条件で元の世界に帰してしまったら、その人間は気の緩みから、本来の世界でしてはならないことをしてしまいかねませんからね。
自分が特殊な立場にある人間だということを彼に忘れさせないため、緊張感を維持させるために、それは必要な約束事なのでした。






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