その一輝が、数ヶ月振りに弟の許に帰ってきた。
ここ数日 日本国は明るく気持ちのいい冬晴れが続いていたのだが、城戸邸内にだけは不気味に黒い暗雲が立ちこめている。
より正確に言うならば――昨夜城戸邸に帰ってきた瞬の兄が 今朝ダイニングルームに姿を現わした その瞬間から、城戸邸の内には不吉な暗雲が立ちこめ始めた――のだった。

一輝の姿を見るなり、氷河は、開口一番に、
「何しに来た」
と吐き出すように言った。
最愛の恋人の兄であり、共に命をかけて同じ戦いを戦ってきた仲間でもある男に対する朝の挨拶が、『おはよう』でも『久し振りだな』でもないのだ。
一輝に笑顔でいることを求めるのは、まず無理な話だったろう。

それでも、その日が始まった頃には―― その日の最初の10秒間ほどは、日本国の他の地域同様、城戸邸にも明るい陽光が射し込んでいたのである。
兄の帰還を知った瞬が、明るい笑顔で、
「わあ、兄さん! おはようございます! 兄さん、もしかして夕べ帰ってきてたんですか? どんなに遅くても、起こして知らせてくれたらよかったのに!」
と言った、その間だけは。
瞬の嬉しそうな声と表情に ムッとなった氷河によって、その陽光はすぐさま かき消されてしまったのだが。

「瞬の言う通りだ。俺の部屋だからといって遠慮は無用だぞ。どんなに遅い時刻でも、そんなことは気にせずに、押しかけてきてくれて構わなかったんだ。貴様がそうしてくれていたら、俺は、俺が毎晩どれだけ熱心に瞬を可愛がってやっているのかを、貴様の目に焼きつけてやれたのに」
「あ……」
『どんなに遅くても知らせてほしかった』という自分の発言の軽率に気付いて、瞬が その頬を蒼白にする。
青ざめた瞬の頬は、しかし、すぐに朱の色を帯びることになった。
そして、瞬は、兄からも氷河からも視線を逸らし、消え入るように小さな声で、床に向かって兄の性向を説明し始めたのだった。

「に……兄さんは、れ……礼節を重んじるたちなんだ。だ……だから、眠ってる者を夜中に起こすなんて、絶対にできな――」
「2時くらいまでは、おまえも俺も起きていたじゃないか。一輝にぜひ見せてやりたかったな。おまえの脚が俺の首と背に絡みついている様子を」
「あれは、氷河が僕の身体を無理に押し曲げて――あ……」
口をすべらせてから 真っ赤になっても、既に外界に向かって放たれてしまった言葉を消し去ることはできない。
瞬は、自らの迂闊に、更に顔を伏せ、両の肩を丸めることになったのだった。

「いったい どういう体勢でやってたんだ?」
そんな瞬の様子を見て、星矢が彼の隣りの席に着いていた紫龍に、瞬に聞こえぬほどの小声で素朴な疑問を投げかける。
星矢のぼやきのような質問に、紫龍は――彼もまた、囁くように低い声で、
「さほど奇妙な体勢でもないと思うが」
と、ごくあっさりと答えてきた。
その“さほど奇妙ではない体勢”を、今ひとつ明瞭かつ具体的に脳裏に思い浮かべることのできなかった星矢は、くしゃりと その顔を歪めることになったのである。

「まあ、そのうちにな」
氷河の挑戦的かつ敵意を剥き出しにした態度に腹を立てるかと思われた一輝が、氷河の嫌味と弟の失言をさらりと聞き流す。
一輝のそのオトナな対応が、氷河は気に入らなかったらしい。
瞬の立場を考えたなら、その手の話はここで打ち切るのが大人というものである。
だが、コドモな氷河は、そこで会話を切り上げることを、あえて しなかった。

「『働かざる者、食うべからず』と言うぞ。普段は、聖闘士としての務めもなおざりにして、あちこちふらついているばかりの貴様が、よくそんな当たりまえの顔をして ここで飯を食う気になれるもんだ。俺と瞬は、戦いのない時にも、アテナのボディガードとして世界各地を飛びまわっているんだ。まあ、毎回いいホテルにダブルの部屋をとってもらえるから、俺も何とか耐えていられるんだが」
氷河は そのダブルの部屋で自分と瞬が何をしているのかまでは報告しなかったが、瞬にさえ氷河の言わんとするところは理解できたようだったから、一輝に氷河の意図が通じなかったはずはない。

それでも一輝は、氷河の挑発に乗ることはしなかった。
無感動な声音で、
「おまえが勤勉なのはよくわかった」
と言ったきりである。
瞬は、今すぐ部屋の隅に逃げ込みたいと言いたげな様子で、一層身体を小さく縮こまらせることになったのだった。

そういうわけで――その日の朝の食卓の雰囲気は最悪だった。
なにしろ、いつもなら、こういう時、場の空気を和らげるべく努める瞬が萎縮しきって口もきけずにいるのだから、食卓に楽しい会話など生まれようはずもない。
『働かざる者、食うべからず』を気にしたわけではないだろうが、一輝は朝食を済ませると、瞬にすら一言もなく、そのままダイニングルームを出ていってしまった。
氷河も、これは瞬が追いかけてきてくれるのを期待してのことだったろうが、やはり 一人で食卓をあとにする。

兄のあとを追うべきか、氷河のあとを追うべきか――兄と氷河の姿の消えたダイニングルームで、瞬は大いに迷うことになったらしい。
放っておくと、瞬は、機嫌を損ねたコドモをなだめるために氷河の許に行きかねない――と考えた星矢は、
「どっちにも行かなくていい」
と言って、半ば強引に瞬をその場に引きとめたのだった。






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